「作家は行動する」より

相変わらず文章がすばらしい。

 人間は記号であることばによって、直接的な感覚の世界から自由になる。しかし、自由になったその瞬間に逆にことばの構造の制約をうけなければならない。つまり思惟は私を自由にすると同時に、私をことばの構造のなかにからめとる。また一方、ことばが実体ではなくて記号であるということは、とりもなおさずことばが非存在だということである。したがって、ことばによって思惟をおこなうということは、存在しないものによってまぎれもなく実在する世界に迫ろうとすることだということになる。そうすると、深刻な問題が発生するにちがいない。つまり、ことばのからくりにのせられて思惟をおこなう以上、人間は実在の世界に直接ふれることはないということになるのである。(105)

同じ観点からルソーは文明社会の悪を論じ、DURKHEIMはanomyを着想し、江藤淳は「文体」を問題とする。

 ことば――日常語でいいあらわせないものがあるとすれば、当然そこには「言葉の彼方」の問題が持ちあがらなければならない。そしてその問題が持ちあがると同時に、文学者とその他の人間との区別が生まれる。ことばでいいあらわせないから、いわせないですませる。これは日常生活者の論理である。ことばでいいあらわせないから、いわなければならない。これが文学者の論理である。(108)

江藤は「ここにいたって、はじめて『文体』の問題が有意味なものとなる」(108)と述べ、問題状況をつぎのように整理する。

 「言語の彼方」に到達しようとするとき、われわれは三つの基本的な態度をとることができる。第一は、ことばそのものを素朴実在論的なものから機能的なものにつくりかえることである。新たに記号をつくり、そのことによって日常語の実体性を完全に拒否する。このような機能的な体系をつくりあげられれば、世界は明確な構造をあきらかにするにちがいない。第二は、日常語そのものを個性的な角度にねじまげ、屈折させることによってあの「わな」を突破し、世界にせまろうとする態度である。第三の態度はことばを断念してしまうことである。一切の行為を放棄し、具体的な状況に埋没し、ものを直感的に皮膚に感じることによって現実にふれようとする。(109)

第一の態度をとるのが科学主義の立場で、第三の態度をとるのが日本の私小説の立場である。そのうえで江藤は、第二の立場が選びとられるべきだと主張する。なお、坪内逍遥にはじまる自然主義の立場がいつのまにか「第三」の態度へと変質していった経緯については、「奴隷の思想を排す」で議論されているが、ここでの論理は、理論信仰と実感信仰についての丸山眞男の議論ときわめて類似したものとなっている。