スキゾ・キッズ

数日前、売却すべき本を整理していたら、浅田アキラ『逃走論』(ちくま文庫)が目に入った。パラパラ見ていると、けっこう面白い。自分にとって興味深い部分をちょっと記録しておく。

……で、再びアルチュセールに戻りますが、エディプス的家族をめぐるドゥルーズらの議論は、アルチュセールの言っている≪国家のイデオロギー装置≫の分析としても読むことができると思うんです。アルチュセールは近代以前の西欧においては、家族+教会が最も強力な≪国家のイデオロギー装置≫であったと言っている。これが絶対他者との関係において個々人の位置をわりふり、その位置があたかも各人に自然に備わったものであるかのように思い込ませていた。ところが近代へ入ると、家族+学校が主要な≪国家のイデオロギー装置≫になるというんですね。ただ、アルチュセールイデオロギーの一般論において超コード化に近い形で考えているということもあり、家族+学校の種別的な働き方がもうひとつはっきりしない。そこで、この家族というのをドゥルーズのいうエディプス的家族と考え、教会とペアをなす前近代的家族と区別してみてはどうか。そうすれば、エディプス的家族+学校が、位置のわりふりではなく、≪追いつき追いこせ≫のコースへの駆動というかたちで、新しい≪国家のイデオロギー装置≫として働いている、と言えるように思うんです。……(85−86)

「超コード化」って何?こういうことらしい。「コード化のメカニズムにおいては、贈り手と受け手という立場は順ぐりに動いていくわけで、前に受け手であったものがこんどは送り手になるわけですけれども、超コード化のメカニズムにおいては、全体的な贈り手というのが超越的な次元においり、全員がそのようなメタ・レベルの存在に対して無際限の負債を負うということになる」(78)。
岩井克トがこんなことも言っている。

「言語」の「発生」についてルソーは『言語起源論』と『人間不平等起源論』と二つ書いていますが、あそこでルソーは言語の「発生」を神の手を借りずに「自然」の論理のみで説明しようという意図を表明するわけですが、結局それはできない。言語を説明するためには、言語の発生を自然に説明するためには、社会を前提にしなくちゃならない。社会の発生を説明するためには、言語を前提にしなければならない。どうしようもないウロボロスの蛇みたいな循環が起きて、そこから抜けられないわけ。ルソーはそこで結局神の手の一押しなり、カタストロフなりによって「決定不能性」をタナ上げせざるをえなくなるわけです。(220−221)

『社会契約論」も同じで、「社会契約は個人と≪共同体≫との間に結ばれるのだが、一方の当事者である≪共同体≫というのは、実のところ、これから結ばれる契約の結果として存在するようになる筈のもの」なのである。これに関しては、アルチュセールによる読解があるらしい。
マルクスについて。初期マルクスは、ヘーゲル弁証法の枠内にとどまる「疎外論」を展開していた。「類的存在としての人間が、ひとたび自らのうちに孕んだ分裂を克服することによって、より高次の統一へと到達する。この場合、歴史の総体は類的存在としての人間を主体とする自己疎外とそれからの回復の物語として全体化されることになり……そのことによって歴史は形而上学の閉域の中に囲い込まれてしまう」(135)。これについては十分論じたように、1845年頃にはマルクスヘーゲル左派の磁場から脱出し、人間を社会的諸関係の総体のなかでみる「物象化論」の立場を打ち出す。そしてこの「諸関係」は、「常に重層的に絡み合って動いており、そのため完結した総体として見とおすことができない」ものである。それゆえ、「歴史を単一の過程として全体化すること」は、「不可能」な企てだということになるだろう。しかしそれと引き換えに、「世界を変える」こともまた可能になる。関係はダイナミックなものであるから、個人が異質性と交わることによって、動的な歴史の展開が実現しうるのである。

 関係の冒険。≪外≫との接触。こうした含意をもつ言葉を『ドイツ・イデオロギー』の中に求めるとき、ひとは「交通」という概念を見出すだろう。この概念は、いわゆる交通だけでなく、物質的・精神的コミュニケーション一般を広く意味するものである。……交通がなければ、つまり外部の異質なものとの出会いがなければ、歴史の展開は生じないとさえ言えよう。……(140−141)

個人は「社会的諸関係の総体」であり、「交通の束」である。異質性を含み込んだ個人が「外」へと開かれ、複数的に交通しあうことによって、社会は動いていくのだ。