日本共産党

沖浦和光(浪花高、文学部)の回想。

 はじめて左翼運動の実体に触れたのは戦後二ヶ月余が経った徳田球一などの出獄組の解放大会。社会科の時間を休講にしてもらって、教師も行かないかというわけで、大阪の中之島公会堂へ行った。まあ、見に行ったわけだ。十月の中旬頃ですね。……(181)

 獄中十八年にたいする倫理主義的な評価もさることながら、マルクス主義理論にもとづく思想運動というものに抱いていたシャープなイメージとはちがって、この時の印象は、意外にドロ臭いもので驚いたということです。いわば期待していた知的で思想的な世界とは全然異質な雰囲気ですよ。ほぼ満員の会場のうちのかなりの部分が朝鮮人ということに私などビックリしました。(181−182)

 大会がはじまると、壇上に、ひとりひとり手を高くあげて非転向組が出てくるわけです。そのたびに満場ワーッと歓声が湧く。徳球が出てきたときには満場総立ちになり、そのうち何人かは壇の下に走っていってひれ伏した。皆、泣いていましたよ。「すまなかった」という声――これは転向者の声でしょう。しかし、僕たちには、そういうのはまだ溶けこめる世界ではないわけだから、ボウ然として見ていた。(182)

しかし、地域人民闘争方式を掲げていた本部の路線は、全学連の6・26ゼネストの方針とは相容れず、対立がうまれることになった。

 徳田、宮本はゼネストに積極的でなく、「にわかに承認し難い、討議を継続せよ」ということであった。徳球は宮顕にまかせるといってすぐ出ていった。……
 それで結局当日になったら、ドンドン各地から電報が入ってくる。東大細胞は三分の一位の勢力をさいて地方にオルグに出していましたね。われわれの予期以上の成果ということになったわけです。まあそのころから、だんだん非転向神話にたいする物神崇拝みたいなものが崩れてゆく。つまり、闘争指導能力というものが、ほとんどないことが分かってきたわけです。二・一スト後の産別会議での党の政策の失敗も大きく表面化したことも作用した。これから本部との対立がしだいに顕在化していくわけですね。とくに占領軍=解放軍という規定をめぐる戦略次元での論争に入って行くわけです。(193−194)

安東仁兵衛によると、党理論の学習は、次のような具合だったらしい。

入党した頃から私たちはマルクスよりもレーニンレーニンよりもスターリンスターリンよりも党中央の諸決定、とりわけ毎日の『アカハタ』の主張という順序で学ぶべきだ、と言われてきた。それぞれ前者は後者をつうじてその精髄とポイントが把握できる、というわけである。……「レーニンスターリンのいろいろの指導的文献や古典的文献を熟読することも必要である。必要であるけれどもなかなかそれは困難なこともあるから、……党の指令や『アカハタ』を十分読みこなせば、いかなる場合にさいしても、われわれは自分自身で行動することができる」(徳田、一九四七年。第二回全国協議会での報告)。徳田によって「理論拘泥主義」というレッテルがつくられ、いたるところに張りまわされるといった党風であった。(80−81)

戦後初期の共産党を理解するためには、徳田や野坂がカリスマ的に支持された「ドロ臭い」心情のあり方や、全学連におけるバンカラ文化や教養主義文化について解明することが、必須の要件となるだろう。また、レーニンの革命理論とたんなる教条主義とか、どのような条件において分岐することになるのか、整理しておかなかければならない。