Qちゃんをめぐる憶測

shouさんからの質問です。

『seiwaさん、突然ですが、時間のあるときに高橋尚子について語ってください。なぜ彼女はあんなに皆から賞賛され、愛されているのでしょうか。私は彼女を見ているとなんだか気持ち悪くて。だめです。これはどういうことなのでしょうか?』

良い質問ですね。
ちなみに、私はQちゃん、けっこう好きです。健気に頑張っているところが素敵だと思います。でも、最近のQちゃん、たしかに痛々しいです。shouさんの「気持ち悪い」という感覚も、その辺から来ていると思います。
では、なぜ彼女は、痛々しいのでしょうか。じつは私たちはすでに、そのヒントを知っています。そう、「田村でも金、谷でも金、ママでも金」のヤワラちゃんですね。
ヤワラちゃんとQちゃんとには、明らかな共通点があります。それは二人が、「メディアによって作られた国民的アイドル像を演じなくてはならない」と思い込んでいるという点です。しかし、こうしたメディアの虚像を、なぜ彼女らはたやすく信じ込んでしまうのでしょうか。ここで、「スポーツ選手の自意識」の問題を考えなくてはなりません。
一般に、超一流のアスリートの場合、「つよい自意識」は邪魔になってしまいます。というのも、超一流の技術の修得には、厳しい反復練習が必要で、そのためには自意識を消失してしまった方がよいからです。かつてのQちゃんも、小出監督のあやつり人形のごとく、苛酷なトレーニングをこなしていましたね。
また、試合で最高の技術を発揮するためにも、「自意識」は邪魔になります。なぜなら、「つよい自意識」は「迷い」を生んでしまうからです。たとえば、(私に似ているといわれる)柔道の井上コウセイ選手。彼は、東海大学の大学院で文学を専攻していたため(オノマトペの研究をしているらしい)「迷い」が生じました。文学で人間性を磨いた結果、オリンピックに勝利できなかったわけです。
つまり、スポーツ選手は、自意識をもたない方が良いのです。また実際、そのように育成されています(「体育会系」という言葉があるくらいなのですから…)。でも、その選手に人気が出てメディアのスポットライトが当たるとどうなるか?もともと自意識がなかったぶん、おかしなことになりやすいのです。Qちゃん、ヤワラちゃんの病理も、そのあたりに原因があると思われます。
とはいっても、ヤワラちゃんの場合、事情はすこし異なっています。彼女は、「前人未到の○○連覇!!」などということを、自分で言えてしまう人だからです。たしかに、彼女は自意識が混乱しています。でもそれは、マスコミによる自己像をあまりに素朴に受容している、という混乱の仕方なのです。それはある意味では、「自意識がない」ということと同じでしょう。つまり彼女は、自意識をもたないという一流スポーツ選手の条件を保っており、やはり、超人的な天才なのです(したがって、ヤワラちゃんの「気持ち悪さ」=「病理」は、一流スポーツ選手の「気持ち悪さ」=「病理」です)。
では、Qちゃんはどうでしょうか。彼女はもともとが苦労人です(大器晩成型)。なので、ヤワラちゃんとは違って、自意識をもった人であるように思われます。しかし彼女は、小出監督に心身を捧げることを決め、努力して自意識を消去することを決意しました(私が彼女を好きなのは、そこらへんの薄幸な感じです)。ところが、Qちゃんは小出監督と決別し、チームQを発足させたわけです。したがってQちゃんは、「自意識」「主体性」の問題にふたたび直面せざるをえない。そのために、「痛々しい」姿をが見え隠れしている。
つまり、こういうことです。以前のQちゃんであれば、マスコミで注目されようが何しようが、「カントク〜」と信頼していれば、それでよかったわけです。しかし、「チームQのリーダー」となった今では、自分で自分のアスリートとしての生き方を決めなければなりません。もちろん、そこには「迷い」や「不安」が生じます。また、メディアの寵児としての自己役割も意識されるでしょう。となれば、マスコミが発信する自己像=「頑張ることで、みんなに勇気をあたえる自分」が、Qちゃんにとって擬似目標となりかねない。つまり、マスコミの自己像を自己反復することで、「不安」や「迷い」をやり過ごそうという気持ちが出ても不思議がないわけです。ヤワラちゃんの超人ぶりはさておき、真人間であるQちゃんの場合、このようにして「痛々しさ」(=「気持ち悪さ」)が滲みでてしまうわけです。
たしかに、「沿道のみなさんからの応援を、自分の力にして走りました」といった発言は、小出監督という絶対的な支柱が存在したときには、微笑ましいものでした。しかし、小出監督がいなくなった今、Qちゃんは、それをベタに心の支えとせねばならなくなったのです。いや、チームQがあるではないか、とおっしゃられるかもしれません。しかし、マラソンという孤独な戦いで必要なのは、自分にとっての絶対的権威であって、仲間などではないでしょう。あるいはQちゃんも、それを分かっているのかもしれません。しかし今のところ彼女は「不安ベース」で、「仲間」あるいは「応援してくださっているみんな」を頼りにせずにはいられないわけです。あるいはまた、「頑張って、みんなに勇気をあたえる自己像」を、自分にとってのエネルギー源とせざるをえない状況に置かれているわけです。
もちろん、「がんばっているQちゃんにはげまされる」なんていう国民の期待は、気まぐれなものでしかありません。しかし、それを強迫的に追求しなければならないという辛さ、またその背後にある不安感や焦燥感、ここらへんが、いまのQちゃんを論じるためのポイントではないでしょうか。Qちゃん、がんばれ!