朝日の書評より

生きる意味 [著]イバン・イリイチ
[掲載]2005年11月20日
[評者]柄谷行人
 本書は、三年前に死んだ思想家イバン・イリイチへのインタビューに基づく書である。イリイチは、一九七〇年代にメキシコを拠点にして、資本主義による地域開発・破壊に反対し、学校や病院の制度を批判する活動や著作で知られるようになった。その当時はラディカルな思想家として知られていたが、八〇年代になって、むしろ反動的な思想家として批判された。男女の仕事が区別されていた近代以前の共同体的社会を称賛したり、途上国への経済援助・ボランティア活動に反対したりしたからである。以来、彼の思想はきちんと検討されることがないまま、次第に消えてしまったという印象がある。その出自も謎につつまれたままであった。
 本書を読むと、イリイチ自身の言葉で、多くのことが明らかにされている。彼はクロアチア人の父とユダヤ人の母のもとにウィーンに生まれ、ナチの時代にユダヤ人として迫害され、米国に渡った。しかし、本人はカトリックの信仰をもち、プエルトリコやメキシコで司祭として働いた。そこで、右に述べたような活動の結果、教会と対立し、司祭の資格を放棄するにいたった。もちろん、それは信仰の放棄ではなかった。むしろ信仰の徹底化こそが、そのような結果に導いたのである。
 イリイチは経済学者カール・ポランニーに共感し、その関係で、『エコノミーとエコロジー』を書いた玉野井芳郎とも親しかったという。そのことがわかると、イリイチの立場はかなり明瞭(めいりょう)になる。ポランニーも玉野井も、互酬制的な経済を未来に実現することを目指すタイプの社会主義者であった。つまり、イリイチもたんに過去の共同体を称賛したり、そこに回帰することを説いたりしていたのではない。資本主義市場経済の深化によって何がうしなわれたのかを強調したのは、それがわかっていないかぎり、未来がありえないからである。
 たとえば、女性がこれまで男性が独占していた仕事の領域に進出したことは、進歩であるようにみえる。しかし、それがある程度実現されてみると、明らかになるのは、こうした変化が、資本主義経済がいっそう深く浸透する過程にほかならなかったということである。では、この資本主義経済に対して、どう対抗するのか。イリイチを非難した社会主義者は、実際のところ、資本主義経済と共通の基盤に立っているにすぎない。その上で、富の平等あるいは再配分を主張するのである。
 この本(原本)は九二年に刊行された。「グローバル資本主義」がいわれたころである。しかし、この時期にはすでに、イリイチは、自分の過去の仕事の意義を否定するほど絶望していた。以前に書いたことを否定するのではない。ただ、ここまで急速に悪化するという見通しをもたなかったことが間違いだった、というのである。この絶望が、彼を、聖書やヨーロッパ中世の文献に向かわせる。それが、それまでの読者を遠ざけることになった。しかし、彼は過去に向かいつつ、あくまで未来を志向していたのである。

電波男の日記(http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050906)で、私が指摘したことですね。「互酬制的な経済を未来に実現することを目指すタイプの社会主義者」とあるけれど、これは少しだけ発想を転換したうえで、真面目に考えれば、それなりにリアルな構想が可能だと思う。