市民社会=国家

成瀬オサム『近代市民社会の成立』をここしばらく読みつづけているのだが、非常に読み応えがある。政治学説を、社会構造や心性といった社会条件のなかに再定置する試みがなされている。指摘されてみると確かに面白いのは、市民社会そのものを国家と同一視する政治学的思考が、古代ギリシアアリストテレス政治学において見られたにもかかわらず、ポリスの歴史的終焉や古代ローマ専制的支配(ドゥミナトゥス制)によって破綻し、ふたたび国家から遊離した政治社会が経済社会としての市民社会とドッキングするのが、およそ12、3世紀にまで下るということだ。もちろんアリストテレスの時代には、政治社会は経済社会(オイコス)を捨象したかたちで成立していたわけで、それは中世封建社会のなかでようやく市民社会の内部に位置づけられるのだが、そのような違いを超えて、ギリシャ政治学が近代政治思想に影響を与えつづけたことの理由は、「市民社会=国家」という議論の枠組みがギリシャ期においてすでに用意されていたからに他ならない。
なお、古代末期の地中海世界および中世前期ヨーロッパにおいて「市民社会」の概念が非常に希薄になったことの背景には、キリスト教の特有な「市民」概念も影響していた。古典古代においては国家は市民の政治的共同体かつ祭儀共同体でもあったのだが、「地上の国」と「神の国」の断絶を説くキリスト教においては、古典古代型の市民社会概念は成立しがたい。しかし、12、3世期になると、「地上の国」としての世俗社会に「市民社会」を見出す把握が見られ始め、概念の再定義がなされるようになったという。

しかし、ローマ=カトリック文化圏のなかで、一二、三世紀――封建王政と中世都市の発展期――にローマ法とアリストテレス哲学が相次いで継受されるに及んで、古典古代的な「市民」ないし「市民社会」の概念が再びヨーロッパに導入されることとなった。教会法における霊的権力と世俗権力の区別に対応して、キリスト者共同体は、その世俗的側面においては、さまざまなレベル(年、領邦、王国、帝国など)での「市民社会」=「国家」societas civilis=res publicaという概念で把握されたのである。アルベルトゥス=マグヌス、トマス=アクィナスなど、アリストテレスの継受をふまえたこの時期のスコラ学は、この点で、ヨーロッパにおける「市民社会」の概念史上、画期的な意味をもっている。(24)

もちろん、言うまでもなくこのような市民社会の読み直しが生じたのは、大きな社会変化がその背後にあったからだが、著者によるとそれは、中世都市における誓約団体としての権利共同体の成立であるという。

……古典古代=ポリス的な「市民社会」概念の復活が都市の勃興と結びついていたのには、それなりの理由がある。中世都市の商工業に経済的基盤をもつ市民身分の形成は、個々の市民の自由意志的な誓約団体という、独特な権利共同体(ゲノッセンシャフト)のかたちにおいておこなわれたのである。(26)

……都市の囲壁の内部に、みずからの手で「共通の法」と秩序をうち立てようとつとめたこの誓約共同体の倫理的な基礎は、ゲノッセンシャフト的な「誠実」であり、相互援助の義務であった。市民の商業・金融活動は、近隣の農村地域のみならず「国境」をもこえてひろがったが、かれらはあくまで自己の母市に所属する共同体成員としての意識を堅持し、各都市の内部において、共同の負担(租税)、軍役、また囲壁や教会の建設、自律的な秩序維持(都市警察)などをつうじて、市民的な公共性を発展させたのである。ここに成立するゲノッセンシャフト的なエートス公共性の概念こそが、農民身分に見られるごとき封建領主による土地緊縛や婚姻強制などからの自由とあいまって、近代ヨーロッパ的な「市民社会」=「公民社会」の形成をもたらす、いわば意識面での諸要因を準備したということができよう。(30−31)

とはいえ、このような社会変化が「市民社会」=「国家」の結合をただちに用意するはずもなく、まずはBodinがフランスの宗教戦争を通じて考案した「主権」の概念があり、それから絶対王政の枠組みを保持するかにもみえるHobbesの社会契約説などがあって、政治理論は歴史的に構成されていくわけなのだが、たとえば社会契約説で必要な近代的個人主義思想の萌芽的要因には、ヘレニズム期のストア派によるコスモポリタニズム(ポリスを超える!)があったりするなど、思想の成立経緯と社会変化との関係性というのは極めて複雑だとあらためて痛感する。