ギャルたちが心配

帰ってきてテレビをつけると、NHKで渋谷のギャルの特集をやっていた。
渋谷センター街にたむろするギャル/ギャル男たちの間では、「サークル」と称するイベント団体が組織されているらしい。
これが意味することは、もはや渋谷の「都市性」が臨界を突破し、崩壊しているということだ。初期ブルセラ女子高生の時代(=私らの世代)において、渋谷はまさに「都市は人を自由にする」場所だった。「匿名性」が保証されるべき、象徴的な場所だったのである。ところが、匿名性を可能にするはずの過剰流動性が、渋谷からはすでに失われてしまっている。ギャルの「掃き溜め」であるセンター街は、流動性からは程遠い場所に変貌しているのだ。
そう考えると、ギャル/ギャル男の迷走ぶりは興味深い。
「サークル」などという面識的共同圏が誕生していること自体、渋谷に集う目的にとって自己矛盾的な事態なのであるが、もちろん彼らはそのことを気付いていない。そこで行なわれていることは、「渋谷=自由」「ギャル系のファッション=自由」という記号消費だけである。だが、それらの「自由」は、流動性が失われた時点で、すでに変質してしまっているのである(=「自由」の「記号化」)。
したがってそこでは、興味深い反転が生じることになってしまう。というのは、サークルという「共同体」の組織化メカニズムは、「社会に対する反社会的振舞い」という点で、かつての「暴走族的不良共同体」と機能的に等価になるからだ。都市的自由は、共同体的前提を取り払ったところに成立するものだったはずなのに、「ギャル系」という都市性の象徴(=ギャル連中のアイデンティティーの源泉)が、共同体を組織することによって掘り崩されてしまっているといえよう。
その「サークル」では、「大人たちの偏見」に抵抗するべく、ゴミ拾いや麻薬撲滅のメッセージを主張しているのだという。「大人たちの社会」は、「自分たちギャル連中を偏見の眼で見る」から、それにたいする「反社会的振舞い」としての、「ゴミ拾いや麻薬撲滅メッセージの発信」ということらしい。
ねじれて、一回転して、元に戻ってしまっているのは明らかだろう。ギャル系に見られたくないのなら、ギャル系をやめるのが一番なのに。
渋谷という「都市性の臨界」は、ギャル連中たちの「アイデンティティーの臨界」をも導くものであるようだ。