Dさん

……教育の発展はあらゆる人間的事象の発展と同じく、常に正常であったのではないからである。相反する思想間の闘争葛藤を通じて、しばしば、その内在的価値によって維持されるべきであった強い思想が没落したことがあった。この場合でも他の場合でも同様に、生存のための闘争は、大ざっぱな、あらましの結果を生み出しているにすぎない。しかし、一般的に存続したものはもっとも適切な力を具えたものである。しかしその反面、何と多くの不正な勝利や死滅、あるいは許しがたい、遺憾な敗北があったことであろう。何と多くの思想が当然存続すべきであるのに、中途で瓦壊したことであろう。epf40,58

やっぱり社会類型には二類型(前近代→近代)しかないってことなのかねえ。もし二類型しかないのだったら、教育思想内容を社会に適合的/不適合的という二値コードで区分すると、全部で四つの社会状態しかないことになる。そのくらい単純に分類したら、上記引用に見られるような「思想の脆弱性」の主張も可能になるだろう。しかし、もし「社会に適合的な思想表現」という理論的前提を保持しつつ、さらに複雑な社会類型図式を用意するのであれば、引用で示された表現は端的に矛盾的なものとなるような気もする。実際のところは、どうだったのか。
もうひとりのDさん。

教育は社会進歩と改良の基礎的方法である。//教育は社会的意識に参加するようになる過程の調節である。しかもこの社会的意識を基礎とした個人的活動の調整こそ社会改造の唯一の確かな方法である。(『私の教育信条(1899)』)

明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。(1899)(25)

「社会の改造」が先か、「教育を媒介とする個人の改造」が先か、みたいな揺れ動きがあったそうだ。なお彼は晩年には、「教育の意義は、なまの人間性と異なる、思考、感情、欲求、信仰の新しい方法の形成による、生来の人間性の修正だからである」と述べているが、このとき問題なのは、「生来の人間性」なるものが、どのようなものとして概念化されているかだろう。