昨日の謎が解けた

さしあたり『DTS』『SU』という2著のなかに展開されている考察方法を整理してみるとき、われわれは次の2種のパースペクティヴのなかでかれなりの社会変動へのアプローチが成立していることに気付くのである。第1は、社会変動をきわめて緩慢な、かつ長期的レンジにおける秩序の全身的な交替としてとらえるいわゆる進化evolutionの視点(Dは、ものごとの漸進的な発展をevolution,developpement,progresなどのタームで記述しているが、ここでは最初の言葉を採用する)。第2は、この枠組では把握しえない変動を、漸進的な進化のプロセスを撹乱する『異常な』anormalもしくは『病理的な』pathologiqueな社会過程として追究する病理学的な視点」(宮島53)90

したがって基本的には社会発展の図式は2類型で済むようになっていて、それではとらえられない変動が「病理学的」な問題関心から把握されるわけだ。したがって「思想の敗北性」という「病理性」は、後者のよりミクロな変動のなかに観察される事実であるわけだ。
とはいえ、このような場合、「機能的適合性」などということが、いったいどのレベルで(観察可能なものとして)成立するのか。きわめて不分明であることはたしか。