Dさん(1900)

Dが自我について論じている部分を見てみる。

  • 個人意識もまた原初的な諸意識、すなわち多少とも明確な自我の中に集中した諸表象または諸印象の融合によって生み出されるのであり、社会意識と同様「融合の全体」なのである。……個々の自我は実際には我々であり、これが社会的我々が自我として考察されることを理解可能にしている。(SSA訳:99)

表象は、たとえ集合的であっても個人の意識として観察されるのだ、というのは、きわめて正しい理論構成だと考えられる。しかし、Dは同時に、次のようにも書くのである。

  • ……もしも社会的諸現象が孤立した個人の所産ではなく、諸々の結合――個人はもちろんこれに加わるのであるが、そこには確実に個人そのものとは異なる諸事物が入り込んでいる――から結果するのだとすれば、これらの総合が何から成り、その諸結果がどうであるのかを知るためには、学者は個人の外部にそれを考察しなければならない。というのは、これらの総合が生じるのは個人の外部においてであるからである。(ibid.:103)

厳密には異なるが、この叙述には明らかに矛盾が存在しているように感じられる。少なくとも、「個人の外部において考察する」という表現は誤解を招きやすい。あるいはD自身、問題をうまく整理できていないのかもしれない。これは、自然諸科学の方法論である「自然主義」を応用しようとしたすえの結果だろうか。もちろん「自然主義」が、新しい科学に独自なニュアンスを帯びていることは、留意されてはいるのだが。