海後(1971)

ちょっと値が張った感じだが、1800円で購入。あまり生々しい叙述ではなく、どちらかといえば淡々とした書き方。
まずは、小川・佐藤・篠原の教科書について。

師範学校の教育学教科書として最も普及したこの『教育学』の内容は前に述べた吉田熊次著『系統的教育学』の編述とその基本となる考え方も内容配列の順序も極めて類似している。このニ著を比較すると大学教授が論述した系統的教育学も師範学校で授けられていた「教育学」理論も同一人が著作したとみられるほどに近接した内容となっている。この事実から一九二〇年頃までの系統的な「教育学」書は一つの形をもって定型化していたということができる。それは高等師範の教授であり、東京/大学の講師であった大瀬甚太郎が明治二四年頃からつくりあげてきた「教育学」の基本となる体系を継承してきたものとみなければならない。(69)

明治20年にハウスクネヒトが雇われて以来、ドイツ学派、とりわけへルバルト学派が主流となった。それが1920年頃まで続いていたわけである。
しかし、昭和10年の教学刷新評議会、昭和11年の日本諸学/振興委員会の活動が見られるようになると状況は変化してくる。日本教育学の誕生。

当時の教学思想からは在来の教育学が欧米の教育書の翻訳紹介で無批判の移入以上に出なかったとして反省を要求されていた。この排外思想によって日本に独自な教育学を創出することを要請したのであった。このため欧米の教育学説をもととした教育学書は昭和10年頃を境として著しく減少した。昭和初年から読まれていたドイツの文化教育学説、シュプランガー、リット、クリークなどの教育哲学書は次第にみられなくなり、教育が一般に時代と場所によって独自な性格をもっているという理論が日本教育の独自性を説きおこす序説のうちにとり入れられるという情況になった。昭和一四年文化教育学を代表する教育学者シュプランガーがドイツ文化使節として一年間滞在していたが、この頃にはすでに文化教育学説はその影がうすくなっていた。(134)

戦後の学部再編は、南原繁の鶴の一声で決定されたと述べられている。学部創設の具体的な企画もまた海後が行ったらしい。

私は文学部教育学科が五講座をもって編成された大正八年の事情を明らかにし、それ以前の教育学科は一講座でどのような研究と教育につとめていたかなどを調べたりした。創設の初めにあたっては、どのような学科を設け、どのような講座を配置するかが最も重要なことであった。高木委員長は先ず文学部の学科と講座のあり方を参考にして幾つかの専門学科をつくり、これに講座をあて、だんだんとそれを担当する専門学者の名をあげる方法を指示した。(228)

なお、「実践の学としての教育の科学」というのが海後の基本構想であり、それは1971年当時にも引き継がれた問題意識だったようである。そして、講座のあり方から具体的な企画が導かれたという経緯は重要なポイントであるように思われる。実践科学であるならば、その配置の原理が何でありうるかは不透明たらざるをえない。過去の講座制度から、というのはプラグマティックな発想ではあるが、配置原理については先送りしたようにしか思われず、その点でのオプティミズムが気にかかる。