『嘆きの天使』

1930年。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督。
非常に感銘を受けた。とりあえず、双葉氏の寸評。

謹厳実直な教師ヤニングスがキャバレーの歌姫ディートリッヒに出会い転落、最後は道化姿のまま死んでいく。この映画はマルレーネ・ディートリッヒのものである。グレタ・ガルボが北欧的神秘ムードの魅力だったのに対し、黒い網のタイツに覆われたすばらしい脚線美で、ドイツ的デカダンスの現実的な魅力がムンムン。ぼくはドキドキさせられながら、たちまちファンになってしまった。それに歌のすばらしさ。二曲のうち“Falling in Love Again”が絶対。この歌のおかげで『嘆きの天使』が成立したといっても過言ではない。

引用しておいてなんだが、この評はちょっと違うと感じる。後半からの展開は、人間的悲惨さの極致であり、圧倒的な救いがたさを感じてしまうからだ。
前半部分は、実直な教師の不器用さ加減が素直に笑える*1。ジョークっぽい雰囲気も漂っている。しかし、微笑ましい道化役の教師は、ディートリッヒへの愛を貫くあまり、本物の道化となってしまう。ここで当初なにげなく笑っていた観客は、自分達の笑いが、教師を追い詰めた当のものであったことに気づかされるだろう。教師の破滅を導いたものは、自分も含めた、普通の人々の、普通の振舞いにほかならなかったのだ。
この映画の根底には、人間性への根本的な不信がある。陰惨なのは、その不信感が、観客自身にも向けられるからである。そのことの意味を深く味わいたいと感じる。

*1:とはいえ、物語の冒頭から、悲劇は暗示されている。鳴かない小鳥は死に、暖炉の燃料にされる。教師は道化師となり、鶏の鳴き声を真似しながら発狂する。発狂したとしても、彼は鳴かなければならなかったのだ。鶏として鳴くことが、大衆の求めるものであり、彼の存在価値=利用価値そのものであったからだ。