『多元化する「能力」と日本社会』

本田由紀先生。昨年(2005年)の終りに出た本。
社会において求められる能力が、「近代型能力」から「ポスト近代型能力」に移行しており、そのなかで従来のメリトクラシー原理ではない「ハイパー・メリトクラシー」とでも呼ぶべき社会的選抜原理が生じてきている、そしてその「ハイパー・メリトクラシー」は、「学力」のように計測が容易な尺度ではない能力を前提としており(たとえば人当たりの良さなど)、それは目に見えないかたちで社会的不平等の構造を再生産している可能性が考えられる、といった内容が、数量的データを扱いつつ、論じられている。
しかし、私はこれを読んでいて、怒りを禁じえなかった。統計的データの読みがあまりに恣意的すぎる。また、恣意的なのは解釈だから許容できるにしても、そもそも論理の一貫性に欠けているのは杜撰だというしかないと思った。知的誠実さがほとんど感じられなかった。
いちいち挙げていくと膨大なので、最小限のポイントを述べておく。まず、「ポスト近代型能力」と「近代型能力」を対比的に論じることが許されるのかという問題がきちんと詰められていない。最初の部分では、それは産業構造の転換がある以上、当然のことだとされている。旧来の「学力」ではない「人間関係能力」が重要になってきている、たとえば「人間関係能力」の無い人は自己肯定感に欠ける、などのデータが示されている。しかし、本書の後半部分ではまったく逆に、「学力」のある人ほど「人間関係能力」があるという矛盾するデータ解釈が提出される。これは一体どういうことか。首をひねらざるをえなかった。
私見によれば、議論の混乱の原因は、見えない格差を生む原因として考えられる「文化資本」の位置づけにある。本来、文化資本が高ければ、「学力」も、「人間関係能力」も、「自己肯定感」も高くなるはずである。これを基本線に考えることができていないので、解釈にブレが生じてきているのではないか。(あとの説明は省略。)
関連して、「ポスト近代型能力」が高いことの価値が疑われていない点にも驚かされた。これからの社会は勉強だけじゃ駄目、「ポスト近代型能力」ですよ、と言われると、分かった気にはなるが、実際にはそのように感情労働に向いた人材が、単純サービス業で使い捨てにされていく危険が存在している。低学力の高校生で、中途半端な自己肯定感があるためにフリーターになったとしたら、それが最終的に見れば「負け組」への道であった、ということは容易に想像可能なことである。しかし、本田先生の議論によれば、そういう人でも、これからの時代は「近代型能力」のある人より「勝ち組」なのだ、と無前提に前提されている。
そもそも「自己肯定感」のある/なし、というのを、データ解釈のときに強引に意味づけすぎているのが問題なのだろう。「自己肯定感がある」ということがプラスの意義を持たない場合がありうる。それは、自己の評価基準が「甘すぎる」ために、自己肯定感が高くなるようなケースである。そうしたことは、おそらく勉強の意味が薄れてきた時代には、しばしばおこりうることだ。勉強をすることにこだわらなければ自分の評価を高く温存することができ、勉強しなければならないと考えていると、自己肯定感が抑制される。このようなメカニズムを、考慮しなければならない。
この場合、「勉強という近代型能力では、幸せになれない」といった解釈を導くのは誤りで、「基礎学力をもとにした能力開発を通じて、他者との深いコミュニケーションが可能になる、したがって、近代型能力のある人間の方が、ポスト近代型能力も長期的に期待できる」と考えた方が一貫性が保てる。実際、本書の後半では「近代型能力」のある人ほど「ポスト近代型能力」もある、とされている。「自己肯定感」のある人が、ハイパー・メリトクラシーの「勝ち組」だというような議論は、あまりに単純であり、見直される必要がある。著者の「人間力」は大丈夫か?(皮肉)