『教育と選抜の社会史』の続き

先日の疑問を胸に置きつつ読み進めていくと、産業と教育とは必ずしも単純にリンクするものではないらしい。イギリスにおいて教育行政機構や中等・高等教育システムの整備が遅れた背景には(1850年代以降)、産業が教育とは無関連に発展していったという歴史的経緯があった。では、ドイツ(やフランス)において、後発近代社会型の教育システムが設計されたのかというと、そうでもないから話はややこしい。そもそもドイツおよびフランスで官僚任命制度として教育制度が利用されるようになったのは、「絶対王政」を維持していくためであり、有力貴族などの影響力を排するために、絶対王政は部分的な業績主義を取り入れたのである(もちろん、全面的に業績主義を取り入れれば、それは身分制の否定を意味したから、これはあくまで限定的な受容にとどまった。このことはその後も影響し、ヨーロッパの教育システムの内部では、エリート教育と民衆教育の制度的分断がしばしば図られた)。さらにヨーロッパでは、職業組合が独自に人材供給の径路を保持していたが、この点も産業と公教育制度との連関を弱体化させる方向に働いたといえる(とはいえ、19世紀には徐々に「試験」制度の利用などを通じて、専門的職業に対する国家統制プロセスが進行した)。
一方、日本は「業績主義的」かつ「開放的」かつ「産業と連関した」教育システムを、きわめて純粋なやり方で迅速に形成していった。この大きな要因となったのは、「支配階級の構成・文化両面における非連続性」であった(DORE、125)。すなわち、近代日本では、藩校や私塾などの業績主義的競争教育を経験した下級武士たちが新政府の政権を担うことによって、開放的なシステム設計がなされたのである。加えて日本の場合、産業や企業組織など、あらゆる社会メカニズムが西欧的に再編成されていく必要があり、このために西欧的知識の移入基地(「近代化の橋頭堡」)として学校の果たすべき役割がきわめて大きかった。実際には、初期の学校は士族らが多く通ったのだが、日本では、(1)中間階級の未成熟による階級的学校文化の不成立、(2)ヨーロッパのような同業組合的伝統の欠如(=職業的知識の旧弊化)、(3)近代的知識の輸入基地としての学校の重要性増、などの諸要因が働き、「産業社会に適合的に連関する教育システム」が成立することになったのである。
とはいえ、日本の教育システムも、「外国語教育と日本語による教育」の2要素の並立したことで、公教育から出発した「正系」と私教育から出発した「傍系」の複線型システムが導かれ(加えて、言語の問題とともに人材供給の実際的側面からも、文部省は「傍系」学校を取り込んでいくことを必要としていた)、それが(大正期にしだいに官僚組織化していった)企業組織によって人材評価の基準とされることによって、学歴主義の過熱化を招くなどの問題構造を生み出していた。また、中間階級文化の存在が薄弱であり、「傍系」の実業校における富裕層ブルジョワジーの「教養教育」も試みられたとはいえ、基本的に中学校の階級的包摂が行われなかったことも、それが大学などの高等システムと連続的に接続することで、中学校を「完成教育」の場ではなく「進学準備機関」の場として位置づける方向へと働くことになった。これも結果として、学歴競争過熱がおこりやすい制度形態を導いたといえる。