『教育と選抜の社会史』まとめ

(1)明治維新において下級武士による「革命」を経たため、日本の学校教育制度は、伝統的身分文化とは異なる開放的な選抜装置として、業績主義的に機能することになった。ヨーロッパでは、アビツーア試験(ドイツ)が進学抑制策としての目的を担っていたとおり、階級文化を維持する教育機関が「正系」であり、新興階級が「傍系」という構造が保たれていた。しかし日本では、官僚機構・専門的職業人などを養成する官立学校が「正系」であった。
(2)すなわち学校制度は、社会的上昇移動が誰にでも可能なように開放的に設計されていた。これによって「野心」が「過熱」される仕組みが、効果的に帰結された。もちろん、教育費の負担能力による制約はあったが、階級や身分による制約は存在しなかったので、ヨーロッパと比較して日本の開放性は著しい特色であったといえる。また、学校は「正系」と「傍系」に分かれており、同じ教育段階においてもこの区分に基づく階層化が存在していたため、<卒業証書の価値が低く「学校歴」の価値が高い>という日本型特徴が生まれることになった。
(3)ヨーロッパとは異なり、卒業資格試験が存在しなかった日本では、入学試験が重要な意味をもった。「学校歴」が重視されたことには、卒業資格が問われなかったという事情が大きく関わっている。ヨーロッパの学校では「階級文化」を伝達する非実利的側面が強かったため、文化の習得の度合いを問う卒業資格が重要な意味を持ったのだと考えられる。一方、日本では、学校が産業社会と整合的に連結していたため(しかも初等教育から高等教育まで連続的だったため)、特定学校に入学することがすなわち特定の近代的職業につくことを意味し、それゆえ「学校歴」の有意味化へとつながったと考えられる。
(4)日本における学歴主義は、学校教育制度が整備され、(法律による許認可等をつうじて)学校歴が擬似職業資格化することによって完成した。産業化初期においては、各専門職ごとの資格試験が(学校制度とともに)社会的上昇移動のルートを形成していたが、大正期から昭和初期にかけての近代セクターが成立(企業組織の成熟)すると、学校組織と産業社会との連結は徹底して深められた。ヨーロッパでは産業社会が学校の成熟をまたず進行したので、このようなメカニズムは働かなかった。
(5)上記に加えて、ヨーロッパでは職業資格制度の伝統が存在していたが、日本ではそれがなく、むしろ学校が職業資格の認定=付与機構としての役割を担った。
(6)とはいえ、学校で習得すべき知識は、必ずしも社会と関わりのある実業的知識とはならなかった。それは大正期以降、企業組織が自律的に発展していくなかで、知識や技術が「企業内化」していったことと関連している。必要なことは企業に就職してから習得する、という構造が、このときに出来上がった。(これは、大変興味深い。なぜなら、知識・技術が「企業内化」されているかぎりは、職業教育というのは「絵に描いた餅」となるからである。)
(7)社会規範の面でも、「業績」と「平等」は、ヨーロッパと比較して強く支持された。業績主義的な教育システムを設計する必要性については、文部省も真面目に考えていた。
(8)以上のように、学歴主義化は、社会における職業資格とが学歴が結びついたときに、成立する。
(9)またヨーロッパ諸国においては、学歴主義化は専門的職業および官僚の面で進行したが、日本では企業の職員層のなかにも急速に浸透したことが重要である。当初、企業に就職することは「正系」においてふさわしい行動だとは考えられなかったが、近代的知識を備えた人材が順調に供給されるようになるにつれ、また企業セクターの規模が増大するにつれ、「正系」でも企業に就職することが当たり前になってきた。とりわけ1930年代の不況下における就職市場の「買い手市場化」が、この側面を加速させた。
【総論】近代化論の影響を受けたあまり、産業社会化と学歴社会化をあまりに法則的に関連づけすぎている点が問題だと思う。近代化=産業化ととらえているから、そうなってしまう。「近代化」といっても、それに「産業化」が先行するかそうでないかは、各国によって異なるはずだ。行政組織の増大が学歴主義を生む(Weber)のであれば、産業化は必然的には関わらない。絶対王政が官僚機構を整備したのは、まったく封建的理由からであって、産業化とは関係がない(ドイツとフランス)。日本では近代化と産業化と官僚制化が同時に進行したが、これらが有機的に関連したのは、日本が後発的に(しかも一挙に)近代化をなそうとしたという、特殊歴史的な要因によっている。