ひさびさにEPF

人間性は一つではない。キリスト教的伝統のもとで抱かれていたそうした観念は、いまや修正されなくてはならない。人間は無限の可変性を備えているのであり、その可変性こそが、社会の理想主義的再編を可能とする。

  • こうして、われわれは人間を限定された、数えられる要素の体系としてではなく、無限に柔軟でたえず形を変え、不断に変化していく状況の圧力によって多種多様な面をとることのできる、一つの力として考えるようになった。われわれは歴史の一定時点において、われわれが構成する実現された状態の中に完全にあらわれるのではなく、こうした状態の下にあるわれわれの中には、まだ顕在化はされていない多数の可能態、永遠に眠ってしまうかもしれないが、必然にせまられて生命にめざめることもできる萌芽が、存在するのである。(650)

もちろん、これは単純な進歩主義的思想を意味するのではない。

  • 一言にしていえば、歴史によって示されるとおりの人間の本性が含意するところは、われわれが人間の本性、その柔軟性、およびその豊かな産出力に対して、広汎なきわめて広い信頼を与えなければならないし、またそうできるということである。しかしながら、この信頼は保守的傾向の人々の精神――それは一つの悪であるが――を、他の悪である革命的非寛容にむけるのではないかと懸念する必要はない。歴史の教えるところは、人間が恣意的に変化するものではないということである。……変化は必然の力によってのみ実現される。変化が必要であると要求するためには、変化が望ましいと考えるだけでは充分ではない。(652)

さらに、「人間性」の(歴史的)可変性が自覚されることによって、人間の意識の変化も導かれる。それは、客観的事物にしたがって自己把握につとめるような精神的態度である。

  • (本来自己とは内的反省によっては捉えられないほど潜在的に複雑であると自覚している場合、)ひとは、真に自己を知り、したがって原因を知って行為をするためには、もっと別の仕方でしなければならぬことを感じている。すなわち、自己を知られていない現実であるかのようにとり扱い、その性格や本性を、丁度われわれが外的事物に対してするように、内的感情というきわめて移ろい易い、不確実な印象にしたがってでなく、それを表明する客観的事実にしたがって、見つけ出すように努めなければならない。(624)

ここでは科学的価値を重んじる実証主義的精神の誕生が展望されているのだが、ここからいっそう発展的に、その有用性について検討することが可能である。自己や他者の不透明性、わからなさ、というものを自覚することによって、他者に対する寛容の精神が生まれる。多元的であることを容認しつつ、それを尊重していくような態度が生まれる。また「人間の本性」を超越的に価値づけるタイプの言説が生む種々の問題性も、おそらく解消される。
ここで「人間の本性についての新しい概念」(654)として述べられていることは、「道徳主義的個人主義」の中核にかかわる倫理的志向性と密接に関連すると考えられるが、必ずしも明示的にそれが述べられていない以上、それについて検討する必要がある。