昨日読んだ本

尾崎(1991)。

  • 田口卯吉は、社会的必要に対応する教育という観点から、普通教育を批判したらしい。
  • 浮田和民は、帝国主義を倫理的に意味づけるなかで、自由主義的・内発的・活動主義的教育を打ち出したらしい。
  • 『東京経済雑誌』は田口卯吉の影響を受けた民権派自由党系)の雑誌だった(明治12年創刊)。『東海経済新報』はそれから1年半後、犬養毅によって創刊されたが、保護経済主義を取っていた点で『東京経済雑誌』と性質を異にしていた。明治10年代、前者は社会経済生活に対応した教育内容を訴えていたが、後者は教育を国家目的に従属させる論調を取っていた。明治20年代からは、政府(国権)対民権派から官吏社会対人民社会へと対立軸の移動が生じ、明治20年代後半以後は、政府対在野という対立軸が消え(経済生活と国家政策との乖離が縮小したため)、あえて言えば、内務省−地方の教育界VS文部省−経済界という軸が生じてきた(91)。
  • 日清戦争後の『東洋経済新報』では、流動的な個人翻意の社会生活の出現が意識され、経済教育の必要がつよく説かれていた。明治30年代後半からは中学程度の速成商業教育の必要がさかんに提唱され、これは高等商業学校を頂点とする秩序を前提としない、完結した完成教育を中学段階で実現することを目的とするものだった。
  • 明治30年代の『東洋経済新報』などでは、経済界の教育提言をどのように現実化するかということが議論され、商業会議所の利用などが検討されている。しかしそれは実現せず、明治29年設置された高等教育会議への人材送り込みをめざして同誌は主張を継続し、結果として大正2年奥田義人文相が教育調査会を新設置、ここには渋沢栄一、豊川良平、早川千吉郎、中野武営らが進出した。