太田光の限界

風呂上りにテレビを見ていたら、爆笑問題が東大で小林先生と教養について縦横に語り合うという番組をやっていた。新入生とおぼしき東大生がいっぱいいる。そこで太田光が「専門学者が一般人に届かない主張をしているのは書き方に工夫がないから。人に伝わらないのはだめ。漫才師はそういうことをすごく意識している。立川談志はすごい落語をやった後でも『死にたい』とか言ってる。そのくらい努力しているんだ。」(大意)という話をしていた。太田光の限界を見た気がした。
「教養は開かれていなくちゃいけない」と言いたかったのだと思う。しかし、「教養」をどう定義するかにもよるものの、私自身は、教養には開かれている側面と閉じられている側面とがあると思う。
「教養は開かれているものだ」とはどういうことか。これは教養の定義にかかわる。抽象的な話だが、他者性=異質性に対してその都度自分との適切な距離を保てることが、教養ある知性の働きというものだろう。自分にとってかならずしも身近でない物に対してどうアプローチするのかということが、学ぶ姿勢の根本にはある。それが可能になるためには、複雑さに対するある種の耐性というものが必要になる。複雑なものを認識するための手掛りを、複雑さというものへの一定の慣れを通じて感知していることが、他者性や異質性に対する冷静な距離感というものを可能にする。専門性の習得が教養の習得と同一視されることがあるのは、専門知の習得が複雑な構造的知識の血肉化を要求するからである。これが十分に達成されたときには、異質性との共存が容易くなる。
では、「教養の閉じた側面」とは何を意味するのか?それは明らかなとおり、誰もがそのような他者性への慣れや寛容を身につけることは難しいということである。ここには壁が存在している。複雑性に耐えられる人は、そう多くはない。立川談志の落語は、誰にでも分かる開かれたものではない。それは他者性・異質性に開かれた人のみが理解できるものであるはずだ。談志師匠の葛藤は、自己完結的なものである。それは、つかみとるべき複雑性をどこかで捉えそこなっているという、自分にとってのみ切実な基準によって生まれている苦闘であるはずだ。
ここのところが、どうも太田光には分かっていないようだ。もしかしたらうまく言語化できていないだけかもしれないが、テレビメディアに対する芸人としての期待が、このような考えを生み出しているのかもしれない。しかし、そんな期待ははやく捨ててしまったほうがよい。大衆の目線にあわせていたのでは、本来開かれるべきはずのものが開かれなくなってしまう怖れすらある。