阿部良雄あるいは情熱と責任

しばらくネットから遠ざかっていたせいで、読んだ本、聴いたCDなどを記録しないままになっている。東大出版会の『UP⑦』に掲載されていた文章、松浦寿輝阿部良雄あるいは情熱と責任」もそのひとつだ。と思って、ぱらぱらと見返してみると、こんな感じだ。

・・・阿部良雄の仕事の高峰の連なりを今改めて望見するとき、「情熱と責任」という言葉がその本来のずしりとした重さとともに浮上してくる。それは阿部個人の資質や志向の問題である以上に、近代日本の知識人としていかに生きるかという歴史的使命の引き受けかたの問題であったに違いない。阿部の仕事は、文学が好きで好きでたまらない人々の愉しみに奉仕するためになされた「啓沃」などではなく、しかしまた「本国の学者と張り合う」ことのスノビッシュな満足感の追求などでもむろんなく、ひとことで言うなら「西欧精神の自己認識の営為に拮抗する独自の自=他認識の営為を築き上げ」るという大きな志に衝き動かされて積み上げられてきた強靭な思考の蓄積である。しかも、その「営為」の過程で彼は二重、三重の困難に逢着し、そのつどテクストを構成する言葉一つ一つの意味をじっくり確かめ直すという文献学者の責務を地道に果たしつづけることで、それら困難と正攻法で正面から闘ってきた。(58−59)

「今日、人文科学の論文もワープロ画面での効率的な情報処理のスマートさを競うような具合に書かれるようになってきており、阿部のように個性的な文体を、すなわち個性的な書き癖、考え癖を持つ学者は消滅しつつある」。ここには「決定的な歴史的断裂の所在が感知される」と、松浦は述べる。

阿部は、最初の一行を読むなりそこに阿部良雄の署名がただちに感知されるような文章を書いた、恐らく最後の世代の外国文学者である。隅々まで彫琢し尽くされ、かと言って滑らかに磨かれた言葉がさらさら流れてゆくというのではまったくなく、厳密のうえにも厳密を期した観念の選択と連合によって詰屈した論理が重層的に展開していき、そのはざまのそこかしこに、ボードレール的ダンディズムと無縁でない鋭利なアイロニーの光が的確に瞬くといった阿部の文章は、情報伝達の効率性など一顧だにしていない。(60−61)

今はっきり思い出したが、そう、この文章を引用したかったのである。良いでしょう?
ところで松浦などと呼び捨てにしているが、大学一年生のときに映画論の授業に出たことがあるので、正確には松浦先生と呼ぶべき人である。この映画論の授業はもちろん蓮實大先生から引き継がれたものだが、そうだとすると、「詰屈した論理」というのではもちろんなく、スポーツのように延々と流れていく、途切れないことのみが自己目的化したかのような、あの蓮實文体について、弟子にあたる松浦先生はどのように考えているのだろうかと、疑問が沸いてくるわけで。
阿部良雄ボードレール訳については、これを参照。http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060114
で、われながら鋭いことを言ってみると、オタクたちは、現代のダンディーなのである。彼らは少なくともスノッブではない。