「子供の心が見えない」をめぐる激辛批評

深夜のテレビで学級崩壊に悩む小学校の担任教師のドキュメンタリーが放映されており、興味深く視聴した。学級崩壊は「子供の変質が原因」とする説が根強いが、もしそうだとすると日本中の学校のすべての学級で学級崩壊しているのでなければならない。学級崩壊とまではいかなくても、それに類する現象が見られるのでなければならない。これはいかにも想像しにくい。では、実際の所はどうなのか、ということで、興味深く視聴したわけだ。
見終わってから、「なぁんだ」と思った。たんに教師の能力不足ではないか。教師にクラスをまとめる力量がない言い訳として、「子供の心の変質」と言い表しているだけではないか。
番組の教師について言えば、集団のコントロール力学に対しての感度が鈍すぎる。子供でなくても、あのメリハリのない話し方では飽きがきてしまう。私が小学生だったら、まっさきに馬鹿にするし、学級を崩壊させてしまうにちがいない。
規律に対する厳格さ、が不足しているのだろう。そもそも、「なぜ規律が厳格に守られなければならないのか」についての教師側の信念が欠けている。信念さえあれば、厳格に対処することはたやすい。そして信念とは、教師自身の公平観念に根ざして、初めて確立されるはずのものだ。
すなわち、当該の教師の場合、彼自身の公平観念=価値観が脆弱であり、したがって規律に対する内在的理解があやふやで、それゆえ集団に対する厳格性の要求が不徹底に終わる、という構造が招かれているようなのだ。「なぜ、その規律が厳格に守られるべきなのか」についての説得性が希薄であることが子供自身に見抜かれてしまっているのだ。
そうした教師が「子供の心が見えない」と言っても、それは現実を糊塗する行為であるにすぎないだろう。「心」はどのようにでも解釈可能だ。それを良いことに、「心の変質」という解釈図式を、現実のなかに滑り込ませているのにすぎない。
教師が予定調和的に夢想する「心の通じ合い」など、現実を改善していくための何の助けにもならないことは、言うまでもないだろう。教師の理想はもちろん存在すべきだし、それに生徒が自発的なかたちでコミットすることも、望まれてよいことだ。だが、「自発的なコミットメント」を引き出すには、それなりの道理的手続きが必要である。そうした道理的手続きを無視し、たんに「心の通じ合い」の欠如を嘆いているのは、あまりに拙劣というものである。
そしておそらく、「規律に対する厳格さ」というものは、そのような道理的手続きの一部を構成するものなのだ。そこらの洞察力なしに、学級運営はなかなか難しい。学校に対して社会が与えていた権威が失われ、教師自身が子供に受け入れられうる権威性を帯びる必要性のある現状では、とりわけそうであるはずである(「子供の心の変質」なるものが存在するとすれば、それをもたらしたものは、こうした「社会の側の変質」であるだろう)。