徳山高専の事件

容疑者は犯行直後、自殺したという。私が不思議なのは、なぜ簡単なものであっても、書き置きなどが残されていなかったのか、ということだ。罪責感から自殺したというのであれば、ある種の謝罪の表明があってよいと思う。私だったらそうすると思う。あるいは、犯人に罪責感はなかったのかもしれない。そうした罪責感を抱かない人間だったからこそ、突発的な犯行に及んだと考えることもできる。しかし、では、なぜ、自殺なのか。罪責感からの自殺でないとしたら、これもまた「突発的な自殺」だということだろうか。しかし、自分の生命に対してまでも「突発的」でありうるという自己の有り様は、それはそれで想像しにくいことである。
直接関係するわけではないが、ミヤダイ先生がブログ上で次のようなことを発言しておられる。こういう主張をさせたら、さすがに的確である。

[昨今の若い犯罪者の多くは]暴走した後に反省して「なぜあんなことをしたのか」となる。去年(2005年)の「スーパーフリー」事件の容疑者にもいました。第一に、キャラを演じて引っ込みがつかなくなるケースが目立つので、こうした表層的コミュニケーションを手当てする必要がある。共通前提を確保しないと前に進めないという日本的作法が続く中、〈生活世界〉空洞化による共通前提の不透明化を「ノリの同じさ」で埋合せようとするからキャラを演じます。共通前提を当てにしないで自在に交流できるように育つ環境が必要です。
 第二に、場が変わると人格が変わるのを精神科医は「解離的」と言いますが、解離が増える背景に、社会全体が「解離の薦め」をする現実があるので、これを手当てすべきです。企業研修プログラムや就職活動マニュアルは90年代後半から「解離の薦め」になりました。「この場面はレオナルド・デカプリオ、別の場面はショーン・ペン」と最適な行動モデルを場面ごとに遣い分ける。かつての研修に見られた「理想的な自分」の追求はありません。
 企業的視座からは合理的です。膨大な情報量を一個のCPUが処理するより、局面ごとに情報処理を複数のCPUに分割処理させた方が処理能力が高いからです。過剰流動的な社会では解離が適応的です。企業社会ではウマク生きられるし、キャラを演じる局面的コミュニケーションでもウマク生きられます。でも、有責性を担う存在としては不適切だし、人格をまるごと評価する〈生活世界〉の視座からも不適切です。
 昨今は「ウマク生きること」と「マトモに生きること」とが乖離するのです。ウマク生きようとするとマトモに生きられない。ところが大人たちは「ウマク生きろ」と推奨する一方で「マトモに生きろ」と推奨する。ダブルバインドです。そのこと自体が「解離の薦め」になる。「ウマク生きなくてもいいからマトモに生きろ」との優先順位が必要です。
 加えて「マトモに生きる」という言葉に意味があるためには「マトモさ」を評価する場も必要です。「ウマク生きる」ことを要求する「役割&マニュアル」優位の〈システム〉とは別に、「マトモに生きる」ことを要求する「善意&自発性」優位の〈生活世界〉が必要です。匿名的コミュニケーション空間と別に、名前を覚えて人格的全体性を参照するコミュニケーション空間が必要なのです。

強調は私。とはいえ、「生活世界」はすでに崩壊しているし、「『マトモに生きる』ことを要求する『善意&自発性』」を実現するだけの教育システム上のリソースも存在していない。そこが問題である。参考までに、http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050508http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051211