『フランス史10講』つづき

第三共和制まで読み進める。非常に面白い。
マルクス主義的な階級闘争史観とは距離を取り、反変革(王政)―変革主体(貴族・名望家層)―民衆、の三極構造でフランス革命を記述していることは前に述べたとおり。「ブルジョワ」概念は、あくまで社会・政治的概念として理解されている。
それで明らかになるのはウィーン体制後、普仏戦争にいたるまでのフランス国内における政争が、ルイ=ナポレオンの第二共和制・第二帝政期、大きな転換を遂げることである。まずは、7月革命と2月革命において維持されてきた三極構造が第二共和制下で解消する(153)。穏和共和派は、ナポレオン・ボナパルト大統領就任後の政治工作によって凋落し、「秩序派」対「山岳派」の二極構造となったが(「ボナパルト支持派」対「少数の共和派左派勢力」の図式。民衆の大統領支持による)、次いで、7月王政派=オルレアン派のクーデターが失敗すると、第二帝政ナポレオン三世が誕生することとなる。この背景には名望家の地方支配力低下があった。それはおそらく、これまでの鼎立構造を実現していた社会条件が変質したことによるのであろう。(社団に始まる旧中間集団の残存形態としての名望家支配の機能喪失)。第二帝政期の産業振興によって新中間層としての近代的工場労働者が誕生すると、その変質はますます表面化し、パリ・コミューン後の「オポルチュニスト」共和派が、ドレィヒュス事件をさかいに急進派に道を譲ったのは、上述の変化に根ざした社会の個人主義的編成が、そこで明確なかたちを取り始めたからであっただろう。