他者性をめぐる思考

友人と会って、話をしていたら、過激な論争になってしまった。そもそも私は、相手のやる気を引き出す、憎たらしい話し方が、非常に得意なのである。お題は「他者、超越性、コミュニケーション、(アイロニカルな)プラグマティズム」。皆さんもご一緒にお考えください。
A:「他者性をめぐる思考」とはそもそも可能であるか?私はそれが「まったき他者」であるなら、不可能だと考える。他者が「まったき他者」であれば、それは我々の思考範囲を超越する存在であるはずだ。「まったき他者」=「超越性」となる。
B:君の考えは危険思想である。他者性について思考しないということは、自分自身とは他のあり方を許容しないということである。
A:君の「他者」概念には、思想的なラディカルさが不足している。君は「他者性について思考すること」が可能であると考えているようだが、そのように「思考の対象となりうる存在」はそもそも「他者」とは言えない。「まったき他者」は、思考不可能な超越性に属するものなのである。
B:しかし、そうした「他者性」を否定することは、別種の独善性に陥ることになりはしないか。「他者性」とは「背理法」として指し示すことが可能であり、「語りえぬもの」として存在しているのではないか。そうであれば、「語りえぬもの」をめぐる思考は成立するはずである。
A:「語りえぬもの」についての「思考」ということ自体、矛盾している。「語りえぬもの」とは超越的であり、思考の範囲を逸脱している。思考できぬものを、どうして君は思考するのか。レヴィナスにかぶれているのかもしれないが、あんなのはクソだし、妄想だ。
それに、「語りえぬもの」をめぐる「神学的なボキャブラリー」が別の偽善・独善を導くことに気づかないのも、愚かなことだ。超越的な、語りえぬものに、思想上の正当性を付与して、一神教は、血で血を洗う抗争を導いてきたのではなかったか。そのような超越性をコミュニケーションに導入するのは哲学的にナンセンスであり、プラクティカルにも良い結果をもたらさない。コミットすべきは、近代的理性を信奉しつつ、「語りうる領域」を「語りうる範囲」で語っていくことだ。可謬主義的なプラグマティズムの思想こそが重要なのである。
B:君のいうことはわからない。
A:君こそ私にとっての「まったき他者」だ。近代的理性にコミットしないで、語りえぬものの領域を神秘主義的に称揚するのは、思想の役割ではなく、神学の役割だ。
コーヒーショップの店員:閉店のお時間になります。
B:表へ出ろ。決闘だ。
A:こちらこそ望むところだ。