淀川長治

『シネマパラダイスⅡ』より。

感覚のあるなしで、人間は幸せにもなり不幸にもなる。/……/その感覚を養ってくれるもっとも便利なものこそが映画である。/だから、映画をしょっちゅう見ている人と、映画をまったくといっていいほど見ない人とでは、顔つきから違うくらいである。つまり表情のあるなし、それくらい違いが表れるのである。/……/映画を見ているとびっくりしたり、その美しさに酔ったりする。これが感覚を養う第一歩となる。/次は、その映画のそのシーンの表現(演出)に感心するようになる。それこそが感覚の身につくときである。(13−14)

次郎長三国志』を見たとき、小学校か中学校でこれを全部見せたらいいのにと思った。これくらい情操教育に資する教材はないはずだ。
「私はいつも、どのようなときでも、ひらがなでしゃべり、ひらがなで書き綴っている。漢字でぎゅうぎゅうつめこむ文体は、私には似合わないし、映画を語り、映画を書くには不向きと思う」(『Ⅰ』)――このように書く淀川長治だが、油断のならない人間だと感じる。その油断のならなさがおすぎに継承されないで「漢字でぎゅうぎゅう」の蓮實重彦に感知されているところに、淀川長治の奥の深さがあるかもしれない。