「魂の構造」あれこれ

プラトンは3区分の階層秩序をもった理想のポリス像をイメージし、そのもとで魂の構造が調和的に実現されるべきだと説いた。「大衆」が出現するようになったとき、トクヴィルは政治参加によるアナーキーの食い止めを、アダム・スミスは個人利害から距離のある地代層の働きかけを、J・S・ミルはエリートの選挙権拡大や第二院の設置による「階級立法」の防止を、それぞれ説いた。
ところでプラトンは、「ちょうど国家が三つの種族(階層)に分けられたように」「一人ひとりの人間の魂もまた、それと同様に三つに区分される以上、そのことにもとづいてわれわれの問題は、また別の証明を得ることになるだろうと、ぼくには思われるのだ」と述べて、「魂の構造」について次のように整理している。「われわれの主張では、魂のひとつの部分は、人間がそれによって物を学ぶところの部分であり、もうひとつは、それによって気概にかられるところの部分であった。そして第三の部分は、多くの姿をとるために、それに固有であるような単一の名前でこれを呼ぶことができずに、それ自身のなかにある最も主要で最も強いものを、この部分の名前として当てることにした。すなわち、われわれはこの部分を、食物や飲み物や性愛やその他それに準ずるものに対する欲望のはげしさにもとづいて、<欲望的部分>と呼んだのであった。また<金銭を愛する部分>とも呼んだが、これは、その種の欲望が何よりも金の力によって遂げられるからである」(『国家』下巻266)。
イデア論にもとづく「魂の構造」論とそれに従った国制の分類とは、ペロポネソス戦争後の懐疑主義・知的相対主義へのアンチテーゼとしての、きわめてラディカルな主張であったわけだが、しかし「魂」といった人間本性への探究の面から、秩序の混乱の制御を展望できるほどには、社会の複雑性がまだ小さいものだったのだなぁと思う。
とはいえ、この秩序崩壊から、階層的な社会的世界をどのように再構成するかについてのすべての探究が始まったのだと考えると、やっぱりここらへんでパンドラの箱が開いちゃったんだなぁ、とも感じた。