今村昌平『神々の深き欲望』(1968)

フィルムセンター。

(174分・35mm・カラー)南方の島「クラゲ島」での、ノロ(巫女)を中心とする信仰や旧習と、押し寄せる近代の波との葛藤がテーマ。村人の無邪気な様子が生き生きと描かれるだけに、前近代の礼賛ともとれるが、その残酷さを冷徹に見据えてもいる。石垣島での2年越しの撮影は作品に完成度の高さを、今村プロに莫大な負債をもたらした。
’68(今村プロ)(脚)今村昌平長谷部慶次(撮)栃沢正夫(美)大村武(音)黛敏郎(出)三國連太郎河原崎長一郎北村和夫、沖山秀子、松井康子、加藤嘉小松方正、細川ちか子、扇千景、浜村純、殿山泰司、水島晋、石津康彦、徳川清、長谷川和彦原泉、中村たつ、嵐寛寿郎

双葉十三郎先生。これは感想も含め、良いまとめ。

南方の孤島、クラゲ島の神事を司る太(ふとり)家は一方で近親相姦の家系(父嵐寛寿郎とその娘、その間に生まれた根吉=三國連太郎とその妹)で蔑まれてもいる。掟破りをした根吉は島のボス(加藤嘉)から罰を受け、神に捧げる田から巨石を除くため二十年以上も鎖につながれて穴掘りを続けるが、最後は妹とともに海に逃げ殺される。一方、製糖工場の水利工事のため東京から島に派遣されてきた技師(北村和夫)は、初めは島の因習にとまどうもののやがて根吉の娘(沖山秀子)にひかれ島に取り込まれてしまう。五年後、島は観光開発され観光客がやってくるようになる。日本と日本人の基層にあるものを表しているとも、女の性の力強さの表明とも取れる。ぼくの肌にはあまり合わないが、今村昌平監督の力作であることはまちがいない。(60)

嵐寛寿郎の話。竹中労鞍馬天狗のおじさんは』(ちくま文庫)。

……おまけに今村昌平、自分ばかり女抱いとる。あの沖山秀子、頭おかしゅうなってビルから跳びましたやろ。七階も上から、ほてからに生命たすかった、バケモノや。これですわな相手が、大けな女なんダ、おまけに素っ裸で歩いとる、フリチンで。いやフリマン、おっぱいも下のほうの毛もまる出し。何とズローズはいとらん、この世のこととも思えん。ワテも奇人やと自認してま、だがこれはタダゴトやない。
男優かて三国連太郎破傷風にかかって足一本なくすところでおましたんやで。それでもまだこりずに、ゼニもらわんと自費でやってきよりますのや。…沖山秀子、監督と毎日オメコしとる。かくし立てしまへん、そら堂々たるものです。まあゆうたら天真らんまん、先天性の露出狂。ほんまに目を疑ごうた、フリマンであらわれた時は。奄美大島の出身やそうですな、日本人離れというよりも、人間離れがしている。そこがまた、この映画では取柄やった。ちょっと今村昌平の他に、あの女優は使いこなせんのとちがいますか?(302−303)

ラカン、映画については、「ゆたらまあ芸術映画ダ、キネマ旬報のベスト・ワン。せやけど、娯楽作品としても立派な出来やった。あの三国連太郎がラストで、松井康子をつれて赤い船で逃げていく。胸せまりまんな、ホロリとさせられる」と話しておられます(304)。
私の感想。東北弁、大阪弁など濃厚な地域性の窺える諸作品と比較して、琉球文化という感じはそれほどせず、むしろ南東文化の典型的類型が想定されているように感じた。これは「神話世界」というモチーフとも関連するかもしれない。ただ開発主義批判という文脈は今日の目からすると定型的すぎて、これで終わるのは冗長だと思う。巨石が動くシーンももっと迫力があっても良かった。しかし、「三国連太郎がラストで、松井康子をつれて赤い船で逃げていく」シーンは、追いかけてくる船の不気味なスリルと相まって、素晴らしく、感動した。北村和夫が良い味を出しており、彼が沖山秀子とセックスする後半以降のドラマの展開がとくに秀逸だった。撮りたいものを撮りたいように撮った、大変な力作で、見る価値は十分あり。