中江兆民

若干酔っ払っているので簡単に。
中江兆民のルソー読解には、伝統的な儒教道徳の影響が認められる。兆民は「利益の重視する立場」に対する「道徳を重視する立場」の普遍的優位を信じたが、そうした儒教的道徳理解は、経済の発展による人間の堕落を説くルソーと適合的だったのである。
しかし兆民は「有徳君主」の思想を拒否する点において、元田永孚復古主義者と異なっていた。兆民はルソーの一般意思の観念に学び、各人がそれぞれ道徳性を身に帯びるべきだと考えていた。だがそれは如何にして可能であるか。兆民はフランスのスピリチャリズム(「虚霊説」)に注目し、孟子の「浩然の気」と同様、各人の本性における道徳性の内在を認めると共に、それが「邦国制度ノ設」=「議会制度の整備」によって発現されうると理解した。
しかし兆民の理想主義は現実の議会政治への失望を導き、兆民は議会を「無血虫の陳列場」と批判して、実業界へと転身を図った。その行動は、経済的条件が政治を歪めているという「古典的共和主義」の理解に基づくものであった。