『幻の公衆』

さいきん20世紀初頭の大衆社会に関する文献を継続的に読んでいるのだが、本書の指摘は独自の重要性を持っているように思われる。

…人民に自治を教えるという努力の根底にはいつも、私が信ずるに、有権者は責任ある人物の知識や視点にできる限り近づくべきだという前提がある。もちろん、大衆にあって彼が少しでもそれに近づくことなどかつてなかった。ところが、彼はそうであると考えられた。…/関係者と部外者の本来異なる経験に着目しないため、この民主主義の概念は誤りである。関係者同様、問題の実質を手際よく扱うよう部外者に求めるので、それは基本的にゆがんでいる。彼にそれはできない。教育というもくろみは、人類の問題すべてに対して、彼にあらかじめ準備させることなどできない。…/したがって、民主主義は公衆の教育を発達させてこなかった。…/したがって、公衆の市民教育は公職の教育から分かつべきである。市民は事態に対し根本的に異なる関係を持ち、異なる知的習慣と行動の仕方が要求される。…(105−108)

「関係者」と「部外者」という概念が特徴的であるとともに、重要である。彼自身の対案は詳述されはしないものの、以下の通りである。

それは直接関与している個人に信頼をゆだねる理論である。彼らが提起し執行し安定させるのである。無知でおせっかいな部外者からの干渉は、最小限に抑えられるだろう。この理論において、公衆は調整できない危機があるときにのみ介入し、問題の実際には触れず、調整を妨げる恣意的な力を中和する。それは公衆の一員として人々に注意力を節約させ、まったくなす術のないところでは、できるだけ何もしないように求める理論である。(142)

しかしこの本は薄いくせに高いと思う。