キミーと私――教養の隔世伝達

今日は、頭がまるでコンクリートに打ちつけでもしたかのように芯から痛い。疲れているのであろう。無用の読書用に、古田博司『新しい神の国』という素敵な毒舌本をめくっていたら、こんな記述を見つけた。

 私には息子が一人いるが、彼はまちがいなく教養人の卵である。ある日、彼が電話で友人に、「物事には原因と結果なんかなくて、出来事の連鎖があるだけなんだよ」と、穿ったことを言っているのを聴いた。……彼は子供の時に、私が家族に何気なく語ったヒュームの一言をそのまま覚えていて、それをヒュームとも知らずに語っていたのである。
 教養の正体とはこのようなものであり、本質的に教えることはできない。教えれば知識になってしまう体のものであろう。そして、その部分は先祖や親に無意識に生きられてしまうから、敢えて知ろうという欲求が本人自身に湧かない。うちの息子も勉強は父親がするものだと思っていて、ぜんぜん勉強というものをしない。というわけで、わが家の教養は二代で終わることが既に運命づけられている。(52)

私も以前から密かに「教養隔世伝達説」というの唱えているのであるが、かなりこれに近いことを古田先生も指摘していらっしゃるわけである。「要するに、教養とは勉学を通じて絶えず更新していかなければならないものであるが、それを与えるというのは、今後はその子の表現意欲や向学心を奪うという逆転を生じかねない体のものだと思われる」(53)。
このブログの読者には、私の父であるキミーの隠れファンが相当数いるようだ*1。ちょうど同じことが「祖父と父キミー」と「キミーと私」の間で当てはまると思われる。
私の祖父は、古田先生の該博ぶりとは比較は出来ないにしても、知的探究心の深い人物だった。家には斎藤茂吉全集とか本居宣長全集とかが、今でも置かれている。
ところがキミーは私の幼少期、「本なんて読むやつはアホや。読むのはそら自由やで。けど、本読まんと世の中分からんようではあかん。オレの場合はぜんぶ骨董の知恵や」と、子供たちに刷り込みに励んでいたのである。
実際、キミーは読書をほとんどしない。興味本位に新聞をのぞくくらいだ。反抗期を迎えた私は、「こいつは野蛮だ」と軽蔑しながら、野蛮さに対抗するためのロジックを本の世界に求めたのだった。「お前は理屈っぽい、青いやつや」と罵られながら。
しかし、上記の古田先生の指摘を考え合わせれば、キミーの行動原理は理解できるのである。「敢えて知ろうという要求が本人自身に湧かない」、それがキミーなのである。
もちろん、キミーがまったく無教養かというと、東京芸大を出ていたりするものだから、ご都合主義的に自分の学歴を誇ったりして生きている(ただし数十年前の東京芸大は英語が出来なくても入学できる学校だったと推測される)。それに理由はないのではなく、祖父の整えた知的環境がそれなりにキミーに伝達されていたのである。
ただし、このことは「敢えて知ろう」とする必要のない「無意識」を生きているキミーには見えない構造であろう。3世代目の私には、よく見えるが。
というわけで、キミーの限界は、私が一番よく把握しているのであった。これも読書の賜物?