『思想としての全共闘世代』

著者は全共闘運動を「意味のある空騒ぎ」と形容する。戦後知識人には共感はおろか理解さえ不可能だった運動も、彼ら自身にとっては人生を左右する出来事であり、著者はその意味を誠実に振り返ることで彼らなりの社会観を語っている。この本は長く残って欲しい良書である。

ぼくには、同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になったという印象が強い。ぼく自身にしろ、このころは軽い離人症だった。周囲の現実にも自分自身の身体にもリアリティがなく、うろついている観念の幽霊のようだった。おかしくなりそうな奴はいっぱいいた。(143)

しかし小阪の「誠実さ」こそが、全共闘世代の限界と映る部分がある。自分の誠実さを絶対的な出発点とする限りは、「自分にとっての誠実さ」とは相容れない「誠実さ」が見捨てられてしまう。彼らが糾弾した「戦後知識人の誠実さ」にも、彼らに劣らない「誠実さ」があったのではないか?このような自らを相対化する問いは、小阪の論述からは読み取ることができない(だから子供っぽい)。
全共闘運動は、アイデンティティー問題だった。一方、60年安保は政治運動であった。それは「戦後民主主義」を「受益者」として自明視する者の見方と、「権利」として実質化しようとする者の見方の違いである。後者は、敗戦の記憶というナショナルな政治性の上に展開された運動であったが、前者は、近代文明に対し個人として(特権的な学生として)いかに対峙するか、という個人的な問いに発していた。
こうした「問いの様式」の歴史的変化を踏まえることなしに、全共闘運動を「総括」することは出来ない。しかし、本書においてそうした歴史的視点はきわめて希薄である。「戦後民主主義」が受益者の視点からしか概念化されていない。
この歴史性の欠如は、「アイデンティティー問題」こそが問うに値する本質だと考える小阪(全共闘世代)の(子供っぽい)思考法に由来する。そうなったのは、「追求すべきアイデンティティー問題」が、彼らにとってリアルであったからだろう。学生が政治に関与することは先進性の証だという雰囲気、学生の特権的立場を問うアイデンティティー問題が政治(革命)の問題へとリンクするという雰囲気、これらが「アイデンティティー問題のリアリティ」を下支えしたのだ。
だが、私たちポストモダン世代に言わせれば、アインデンティティーを問う様式さえ分からないほどに、アイデンティティー問題は希薄化してしまっているのである。「こういう筋道で問題をとらえればアイデンティティー問題は解決できる」という感覚が、もはや失われてしまっている。だから、歴史に遡及することでしか、自己の位置は確認できない。そういうリアリティーがある。
それは「誠実さ」を金科玉条とする思想の違和感に通じる。「誠実さ」なんてもはやリアルではない。共生可能な技術さえあればそれで十分だし、そのほうが効用の総和が最大化されると思う。この本は良い本だが、全共闘世代の思想観・歴史観の狭さを改めて確認することとなった。でも小阪修平は魅力的な人だと思う。

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)