「論壇ありき」の「思想」?

論座』で「ゼロ年代の言論」の特集。同世代の書き手が多数なので刺激的な面もあるが、ざっと読んだ限りでは変な感じもした。「大きな物語は失われ、旧来の戦後論壇の在り方も失効しているので、思想的な言論が活性化するための工夫が必要」というのが議論の前提のように思えたが、そうだとするとこの認識は二重三重に間違っているように感じる。
(1)「大きな物語が失われたから、思想がショートし、不活性化している」という前提は誤り。多くの人に共有される「物語」が失われたからといって「思想」までが失効するわけではない。むしろ本来の思想は、時代ごとの物語の射程を超えて生き延びる。
(2)「戦後論壇のもとで思想が活性化していた」という前提が誤り。敗戦後、数年の間は思想が取り沙汰されていたが、それも昭和30年代以降の大衆社会化によって急速に衰退した。だいたい左翼論壇の現状認識は歪んでいたわけだし。
(3)「大きな物語の存否にかかわらず、真の思想家は常にどこかに存在する」というのが真理。でも、これが省みられていない。
要するに、「『大きな物語が失われた』という物語」のもとに「言論の戦略性」なんて考えてみても、空しいだけだし、思想が活性化するはずもないよ、ということ。普通に考えるべきことを考えればそれが思想になるはず。
「戦後論壇」とか「批評空間」とかを出発点にする「(ポストモダン)思想」なんて、射程が短すぎるんじゃないの?って思いますよね。「おれたちは『ミニコミ』誌だった」とかいってるサブカル世代についても同様。プラトンの注釈から「思想」を出発させるヨーロッパにいつまでたっても勝てないよ!