神保町で本を買う。

ひさびさに神保町に遊びにいく。あまり買わないつもりだったけど、ついつい色々と買ってしまった。大橋良介『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』(新潮選書)、トインビー(吉田健一訳)『現代が受けている挑戦』(新潮選書)、カッシーラージャン=ジャック・ルソー問題』(みすず書房)、など。
カッシーラーの本は、むかし1000円の美本を買わずにおいて、ずっと後悔していたもの。1500円で購入したが、途中まで読んでみて、やっぱり掛け値なしの名著だと思った。
それ以上に、大橋先生の本が大ヒット。西田幾多郎九鬼周造和辻哲郎、「近代の超克」論争における京都学派、などの論稿を通じて、ヨーロッパ近代の射程を問うと同時に、それを受容した近代日本の歴史的特質を浮き彫りにしている。広松の「近代の超克論」よりも内在的に読み解かれていて、たいへん啓発的。とくに上記の知識人たちのハイデガー読解に、ヨーロッパ形而上学の行き詰まりを思想的動機としたハイデガーとは微妙にずれた、ナショナルであるとともに、形而上学の言語体系から自由とはなりえなかった思考様式が見出される、との指摘が興味深かった(九鬼、和辻)*1。それはしばしば自己分裂的な実存の裂け目としてテクスト上に現れたものだ。
いろいろ引用したいのだが、自分の都合で、以下をメモ。

…さらにさかのぼれば、一九世紀前半の哲学者シェリングがヨーロッパ哲学それ自身の立場からヨーロッパ理性への懐疑を表明した。京都学派の哲学者たちが西洋哲学の摂取につとめるなかで、このようなヨーロッパ精神の自己懐疑に気付かないわけがない。京都学派の哲学を代表する位置にある西谷啓治卒業論文シェリング論であったことは、偶然ではなかった。(154)

ヨーロッパに徹してヨーロッパを理解するということは、他面からいえば日本をふくめた非ヨーロッパ世界を非ヨーロッパ世界に徹して、すなわちヨーロッパの尺度から解放して、それ自体として見るということでもある。そういう複眼は、ヨーロッパ人よりも日本人のほうがもちやすいのは当然である。「かかる世界史(「諸世界」の歴史)の意識と理念とが最も自然に萌し得る地盤が日本に見出されることも恐らくは必然的」であると、西谷啓治が述べた所以である。(155)

その後、センパイと偶然出会ったので、一緒に食事をしてから帰った。

*1:これはかなり暴力的な要約なので注意してね。