「もの」と「こと」

木村敏『自分ということ』(ちくま学芸文庫)をパラパラ読んで、とても面白い。西田哲学、ハイデガーなどを背景にして、「ノエマ的自己(もの)・ノエシス的自己(こと)」の「二重性の自己」が論じられる(ノエシス的自己はカントの「超越的統覚」にも類比できる)。
「そこにあるモノは分かるが、それがどういうコトであるかは分からない」という離人症的感覚は思春期の危機のなかでしばしば見られる。ボクにも覚えがある。大学入学直後、受験勉強のやりすぎかどうかは知らないが、いろんなモノがよそよそしく思えたことがあって、「オレ、思春期をやり直そうと思うねん」と友人に宣言したら、「勝手にやればいいじゃん」とせせ笑われた。まあ映画を見たり、恋にときめいたりしているうちに、それはすぐ直ったように記憶するのだが…(それでもだいぶ長い間、音楽をほとんど聞かない時期があった)。
今では「コト」の感覚が溢れすぎて、あらゆることが(苦痛も含めて)調和的に美しく感じられる瞬間がある。「覚醒」してしまいそうでむしろヤバイ。逆にいうと「整序されているモノの感覚」が人より弱すぎるかもしれず、でもこれは、わりと生まれつきにそうだったような気がする。だからマージャンも弱い。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のいわゆる五官によって、私たちは外界の事物の物理的かつ生理的な知覚をいとなんでいる。私たちはまた、表象とよばれる作用によって意識内界の対象を認知している。これらの感覚や表象は、物質的もしくは観念的な対象が私たちに認知されるための素材を提供してくれる。しかしそれだけではまだ、それらが私たちにとって十全な「もの」としてあるという「こと」にはならない。ものがものとしてあるという「こと」が実現するためには、これらの素材を私たちと世界との現実的なかかわりの中へ取り込んでこれに肉付きを与える綜合的な作用が必要である。「こと」が私たちにとって開かれるために私たちに備わっていなくてはならないこの綜合作用は、これまで自然科学者によっては真剣に問題にされてこなかった。(56)

一応、引用しておいた。