『足利義満 消された日本王国』

東アジア国際秩序への参与者として義満を捉えつつ、今谷明氏の「皇位簒奪計画説」に疑義が示される。
天皇に対する革命理論として「野馬台詩」を重視する今谷説だが、義満は『孟子』の経学解釈をふまえていたがゆえに、『孟子』の放伐説を取ることはなかった。そもそも「野馬台詩」を持ちだすまでもなく、義満は天皇や公家など始めから無視していたのである。「治天の君」として後小松帝を膝下に置いていた義満は、「日本国王」の称号を得た際の引見の儀でも、公家の反感を怖れず、明使を篤くもてなした。
つまり、東アジア国際秩序をスタンダードとする国際派・義満の立場からすれば、彼の「日本国王・源道義」の称号こそ、公家社会に代わる新秩序の象徴に他ならなかった。(1)この方針が義持の父への反感によって撤回されたこと、(2)持明院統・崇光系の「ルサンチマン歴史観」(といっては不敬だが)*1が復活し支配力を得たこと、などによって、上記の文脈は見失われている。しかし(京都)五山の制を整えた義満政権は、禅宗の僧侶たちから国際情報を入手すると同時に、義満自身が(南都北嶺をも包含しつつ)得度してみせることによって、律令体制からの自由、すなわち、天皇家を超越する立場を獲得していたのである!!
相変わらず抜群の面白さ。オススメです。

足利義満 消された日本国王 (光文社新書)

足利義満 消された日本国王 (光文社新書)

*1:扱いやすい後小松帝を据えて、崇光天皇系を干した義満は、後光厳帝の血筋が称光帝で途切れ、持明院統・崇光系の後花園帝が現天皇へと繋がる血脈として復活したことから、「逆臣」感情を招く格好の対象となった。加えて、足利尊氏・義詮が「正平一統」で持明院統を裏切った過去も、足利三代への怨恨感情を高らしめた(と著者は見ている)。