「丸山眞男の仏教論」

末木文美士『近代日本と仏教』(トランスビュー)所収の丸山論が刺激的だった。『講義録[第四冊]』の仏教論が読み解かれる。
丸山は、「宗教は、一個の人間の永遠の救済の問題である。他方、政治は閉じた集団の今ここにある課題の解決である」(172)として、「非日常/日常」「聖/俗」「普遍/特殊」の二分法に基づき、宗教と政治を分節している。なお、聖なるものとしての宗教には、「方法的禁欲」および「神秘主義」という、二種類の参与の仕方がある。
「現世的なるものへの否定」たる宗教であるが、仏教の場合、王法と仏法の二元的緊張関係がしばしば、<即>の論理を媒介とする、真俗二諦説によって、鎮護国家思想へと結びつくこととなった。その上で、丸山は鎌倉仏教の画期性に着目する。最澄および源信を(両義的な)橋渡しとして、親鸞道元日蓮(とりわけ親鸞)へと連なる鎌倉仏教は、次のような宗教性を帯びていたとされる。

いわば人間の有限性の高次の自覚である。……逃れても逃れても執着を断てないのがほかならぬ人間の本性であり、しかもなお罪業煩悩から脱したいという希求が不断に湧いてくる。絶体絶命の自覚が、はじめて生命力ある宗教的態度を切り開く。……救済は自然的な空間時間からまったく異質の次元の世界への飛躍(傍点強調)である。(233)

法然から親鸞への浄土宗の思想的核心は、なによりも彼岸的価値の強調による信仰の純粋化であり、しかもそれを大衆的基盤の上に遂行したことである。……俗権からの宗教の独立(傍点強調)が課題であって、政治に対する<ポジティヴな>思想が希薄である」(245)。親鸞の「非政治的態度」は、まさに非政治的価値に依拠するからこそ、「所与の現実」としての政治的秩序に対する批判力として機能した*1
だがこのような鎌倉仏教の新奇性は、(1)呪術的傾向が再び浸透してきたこと、(2)神仏習合、祖霊・地霊信仰との抱合、教義上のシンクレティズムの傾向、(2)教団組織のpatricularisticな性格の再現<濃化>、(4)王法(俗権)との再癒着、(5)聖価値の審美的価値への埋没、の五点を特徴として「屈折と妥協」の展開へと巻き込まれ、「原型の制約<再抬頭>」(顕密仏教への復帰)を許した。貴重な精神的契機は挫折にいたり、「世俗内禁欲」ならぬ「神秘主義」(「空」の展開から<即>の論理へ、本覚思想)が招かれるとともに、それは日本的特殊性としての「原型」(家族倫理的なるもの)へと帰着した。
なおこれとは無関係だが、ひさびさに目にしたアフォリズムにグッときた。

学問的真理の「無力」さは、北極星の「無力」さと似ている。北極星は個別的に道に迷った旅人に手をさしのべて、導いてはくれない。それを北極星に期待するのは、期待過剰というものである。しかし北極星はいかなる(傍点強調)旅人にも、つねに基本的方角を示すしるし(傍点強調)となる。(『自己内対話』115)

この種の「期待過剰」が蔓延して、北極星本来の存在意義が見失われているのではないかとしみじみ思う。これは本当に、しみじみ、である。

*1:言わずもがなだが、この論理は重要である。