オバマ大統領
……政府はやれること、やらなければならないことをやるが、詰まるところ、わが国がよって立つのは国民の信念と決意である。堤防が決壊した時、見知らぬ人をも助ける親切心であり、暗黒の時に友人が職を失うのを傍観するより、自らの労働時間を削る無私の心である。我々の運命を最終的に決めるのは、煙に覆われた階段を突進する消防士の勇気であり、子どもを育てる親の意思である。/……いま我々に求められているのは、新しい責任の時代に入ることだ。米国民一人ひとりが自分自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのではなく喜んで機会をとらえることだ。困難な任務に我々のすべてを与えることこそ、心を満たし、我々の個性を示すのだ。/これが市民の代償であり約束なのだ。これが我々の自信の源なのだ。神が、我々に定かではない運命を形作るよう命じているのだ。……(読売新聞)
アメリカにおける社会の分断は、一方では功利的個人主義によって招かれたものであるが、しかしその功利的個人主義の淵源に「神」が存在していることは、ベンジャミン・フランクリンの説く生活信条を想起すれば明らかだろう。だからこそアメリカでは、「神」に遡って言及することで、分断を乗り超えるレトリック(=多様性に富んだアメリカの統一)を提示することが可能なのだと思う。オバマの卓越した演説能力を別としても。
翻って日本はどうか?江戸期以降の共同体的事実性に依拠できなくなった場合、社会の分断化(または個人化)を超える論理をどこに求めうるだろうか?理論的には、さしあたって「皇室」が一番現実的な有効性を持ちうると私は思っているのだが(中沢新一『アースダイバー』を読んでもそう思った)、しかしそれを禁じ手とするならば、どんな手が他に考えられるだろうか?