ラノベとケータイ小説

本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)をパラパラめくっていると、ラノベケータイ小説の読者層の違いについて、面白い書き方がしてあった。

(…自意識のある生徒は、ライトノベルのほうを読む。そこには、現実の学校ではない学校が存在するからだ。)/となりの席では、恋愛信仰にどっぷり浸かったクラスメイトの少女がケータイを使って『恋空』や『赤い糸』を読んでいる。その横で、自意識に目覚めてしまった少年は『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫)などのライトノベルを読みながら、現実には存在しない学園、セックスやレイプや妊娠やドラッグに侵されていない学園を脳内に幻視する。/同じ教室にいる生徒が『赤い糸』と『涼宮ハルヒの憂鬱』とに分離している。そして、お互いをおそらくは敵視し、あるいは無視し、関わり合いにならないように自らのパーソナル・エリアを守りながら生き続ける。…(234)

ラノベ読者はPC使用者であり、知的レベルが高く、メタ思考を得意とする(男が多い)。一方、メタ的には意味不明でしかないケータイ小説は、リアルな主題が「真実の愛」に収斂する物語形式となっており、オブジェクトレベルでの共感を引き出すことがありうる(キャバ嬢(予備軍)とかが、傷ついた自己物語を修復するために読む)。

ライトノベルの恋愛はたいてい、ケータイ小説の恋愛とは真逆で、シニカルで、ストイックで、なかなかゴールが見えてこない。人気のあるライトノベル作家は、「愛」という言葉を使わない。そして、主人公とヒロインはセックスに至らない。それらの古びた記号、古びた物語を回避しながら、それでもなお人間は他人と共感することができるのかを試している、という一種の思考実験みたいな側面がある。/あるいは逆に、いわゆるコメディやギャグとして恋愛を扱う。ハーレム展開とか、そういう現実にはあり得ない純然たるファンタジーとして。(232-233)

メタ的な視点を一切取り払えば、ケータイ小説もリアルでありうるというのは、なるほどなぁという感じ。上記引用については、『涼宮ハルヒの憂鬱』でも『N・H・Kへようこそ』でもいいけど、まったくそのとおりだと思う。『ホスト部』は女子向けなので、ちょっと別なかたちで理解される必要がありそう。
しかし、ライトノベルを読まない高校生男子(=ケータイ小説に出てくるような男子)にとって、「物語」への欲求はどのようなものとしてあるのだろうか。そもそも欲求しないのか?