談志師匠

夜も更けきったというのに、見上げると、空が薄明るい。霞がかった夜気が、都市の明かりを反射しているのだろうか。春なんだな、と思う。スギ花粉で、いつも、それどころでないから。
書店で、雑誌『en-taxi』を立ち読み。表紙が、立川談春
中味は、談春福田和也による、ハナシ家墓めぐり。桂文楽菩提寺では、360度回転する巨大な観音様の肩に、交通安全のタスキがかかっている。写真で見ても、あまりにも異様。まるで勘違いしたテーマパーク。
福田が、談志について語っている。噺家には三つのタイプがあるそうだ。自意識のないタイプ。自意識のあるタイプ。自意識について、自意識を持ってしまうタイプ。
最初のタイプの筆頭は、古今亭志ん生。晩年期をCDで聞いただけだが、小林信彦『名人』などを読むと、たしかにうなずける。大らかなる狂気、という印象。
二番目タイプ(の成功者)は、志ん朝。美意識の人。生存者だと春風亭小朝か。ちなみに福田は小朝を認めないようである(「才人」と侮蔑している)。
そして第三のタイプが、談志師匠である。自意識をも突き放してしまうその姿勢。それは場合によっては危険な空転を招きかねない。だが、知性はそもそも、そうしたエネルギーにおいて宿るものであろう。福田は、故田辺茂一紀伊国屋書店社長)に対する談志の散文を引きつつ、その知性のありかを具体的に提示している。
思い出話。
今年の一月、談志の独演会に行った。一時間みっちり話し終えて、観客は大満足だったが、「こんなんで喜ばれちまっちゃ、困るよ」とでもいいたげな談志の表情。一方では、“オレのハナシは今が一番いいですよ”と豪語しているんだから、ワケがわからないといえばまったくだ。しかし、この自恃と恥じらいの振幅において厳しい批評性が生まれるのである。*1
福田クン曰く。家元のそうした知性こそが、超一流人との交流を生み出した――たとえば、色川武大手塚治虫山本七平西部邁小室直樹(!)。
もう少し脱線。
すこし前、西部邁が、「談志・陳平の言いたい放題」に出ていた。じつは最近の私は、西部への評価がすこぶる高いのである。反時代的なこだわりに還暦すぎてもまだこだわっている姿は、やっぱりエラい。
脱線のつづき。
談志と手塚治虫の対談CDも聞いたことがある。手塚は、常軌を逸した発言を平気でしてしまう人物。あぁやっぱり狂気の人だなぁ、と。キャラクターを描いてると、ムラムラしてくるんだそうだ(ピノコ?)。
それからやっぱり、MXテレビに小室直樹を出演させてほしい。
話を元に戻す。
en-taxi』には、談春の文章も載っているが、とても素晴らしい。とりわけ、16歳の談春の目にうつった師匠の描写は必読だ。ミッキーマウスのTシャツを着た赤い半ズボンの立川談志は、ソーメンでスパゲティをつくり、シチューからカレーを発生させ、そのカレーをポトフにしてしまう。立川談春の落語も聴かねばなりません。
最後に、談志独演会で聞いた私のイチオシギャグ。
 「爺さん、長く生きてるってぇと、歳とるの、コワくないですかぃ?」
 「馬鹿。歳とらなかったら、死んぢマわァ」

*1:この意味について敷衍しておく。オルテガは、高貴な人間が抱く虚栄心とは、次のようなものだと語っている。「優れた人が、自分を完全者とみなすためには、特別の虚栄心をもつ必要がある。その場合、自己の完全さに対する信念は、彼自身と同質的なものではない。つまり、根本的に彼の中に根差した信念なのではなく、虚栄のもたらした産物であり、彼自身にとってさえ、仮定的で、空想的で、疑わしい性質をもったものなのである。だからこそ、虚栄心の強い人は、他人を必要とし、他人の中に、自分自身が自分について抱きたいと思う意見の確認を求めるのである。このようにして、高貴な人間は、かかる病的な場合においてさえも、また虚栄心のために「目がみえなく」なっている場合でさえも、心底から自分を完全者と感ずることはできないのである」(97)。オルテガが、虚栄心を否定しているのでないことは、もちろん言うまでもない。高貴な人間はこのような虚栄心を抱くことによって、ありうべき自分へと到達するための活力を獲得し、そのために他者を求めるのだ。一方、愚かな「大衆」は、みずからの完全性を何の疑いもなく信じ込み、そのために自己追求もおこなわないし、他者も求めない。オルテガに関する、私の日記を参照せよ。