『被差別部落のわが半生』

山下力『被差別部落のわが半生』(平凡社新書、2004)を読む。まごうことなき名著。すべての人に推奨したい。絶対に読むべきだ。
たいへんユーモラスな文体で書かれていて、随所に笑いのツボが用意されており、それは本書の特筆すべき美質というべきだが、ここでは論点を二つ提示しておく。もちろん、ただ単純に楽しめるというような内容ではなく、以下でみるとおり大変に触発的な内容だからである。
第一の問題は、日本の近代化との関わりで、部落差別問題をとらえるべきことである。私なりに一般化すれば、部落差別における差別意識は、ヴァナキュラーな(近代以前の)生活世界が破壊されていくなかで、平準化された社会的意味世界が出現することによって発生した。*1近代以前の社会において部落社会は、「上位−下位」といった序列に服しておらず、むしろ「聖−俗」といった重層化された意味秩序のなかに存在していた。本書第5章で論じられているとおり、日本では長らく肉食がタブー視されており、それにもとづいた宗教的な信念体系のなかでは、動物の解体をあつかう部落民は、異能集団としてのまなざしを向けられていたのである。それが、明治新政府による近代化政策(1871年「賤称廃止令」=解放令)によって、民衆が「国民」への平準化プロセスに組み入られるなか、部落民は、位階秩序の内部に序列づけられるようになる。さらに、政府による動物解体利権の剥奪は、かれらを貧困へと追いやることになった。この意味で、部落差別はまさに近代の落とし子なのである。
第二の問題は、戦後日本社会のあり方と関わる、部落解放運動の運動方針の問題である。1969年、佐藤栄作内閣下で成立した「同和対策事業特別措置法」は、被差別部落の社会生活水準を是正するうえで、その後長らく、きわめて重要な役割を果しつづけた。その政策内容は、被差別部落に公的援助をおこなうというもので、こうした路線は、すでに部落解放同盟によって提出されていた「同和対策審議会答申」(1965年)の方針に沿うものであったといってよい。すなわち、差別に起因する生活低水準から脱出し、いかに一般社会に追いつくかというのが解放運動の基本目的であり、逆にいえば、みずからの生活の貧しさは、社会に存在する構造的差別(就職差別・結婚差別)の明らかな反映である以上、それを徹底して糾弾していくことが、運動目的の根本であったのである。
しかし、これは高度成長期から1980年代にかけて、別種の問題を引き起こす原因ともなった。著者自身が述べているように、公的資金などの投入による同和利権の発生は、部落解放運動の出発点を見失わせる方向に働いたからである。

私自身のすぐ近くでもそういうことが起きた。かつて澄んだ目をして部落解放運動に力いっぱい取り組んでいた仲間が、ゼニカネへの欲望にとりつかれ、その目がまたたく間に濁っていくのを見るのは、辛くて哀しい、そして腹立たしいことだった(194)。

これは、差別側からの「逆差別」との非難にもつながる問題であった。*2
くわえて、あからさまな差別意識が除去されていった結果、差別運動への取り組み自体にも、その方向性が不透明になっていくという問題が存在した。かつて、差別に対して声をあげられなかった部落民にとって、教育によって部落問題を社会的に認知させていくことは、差別意識の解消のために何よりも重要なことだと考えられた。しかし、同和教育を積極的に進めていこうにも、もはや差別があからさまではなくなった新世代にとって、それらの教育内容は必ずしも説得力をもちえないものとなっていた。さらに「寝た子を起こすな」という議論も広がりつつあった。いわば“いま、差別問題を提起するということが何を意味するのか”が不透明な時代が訪れたのである。著者の個人史のうえでも、1980年代は「失われた10年」であったという。

一九八〇年ぐらいからのわれら運動体が取り組んできたことは、やや乱暴な言い方をすれば、特措法の延長を繰り返し要求することだけであったといっても過言ではない。延長を要求する裏付けとして、部落差別がまだ存在しているということを証明しなければならない。そこで例えば、高校進学率が部落外と五〜六パーセントの差があるとか、高校の中退率が高いとか、大学進学率に一〇パーセントの差があるとか、中高年年齢層の年金・福祉の状況が脆弱であるといったことを、まだ差別があることの証拠として突き付けて行政の責任を追及し、特措法の延長が必要であることの根拠としてきた(96)。

なお、このような問題をふまえて、奈良県部落解放同盟支部連合会では、2001年に画期的な方向転換をするにいたったという。これまでの方針を捨て、明らかな差別問題である以外は、組織的な糾弾運動をおこなわないことが決定されたというのだ。英断だろう。おそらく社会の差別構造といったものは、従来よりも見えにくい形で存在するようになり、むしろ今後の差別問題は、具体的な場面で、個人と個人が向き合うかたちで解消されなくてはならないのではないか。社会の変化は、きっとそのような方向で進行しているはずだ。

被差別部落のわが半生 (平凡社新書)

被差別部落のわが半生 (平凡社新書)

*1:その意味で、部落差別の近代政治起源説はすみやかに払拭されるべきである。すなわち、士農工商における下位階級の不満の捌け口としてエタ・ヒニンが設けられたとする説明だが、これは近代以降の差別意識を投影した歴史的歪曲にほかならない。

*2:魚住昭野中広務 差別と権力』を参照すべし。この本もまた部落差別問題を考えるうえでの基本図書といえるが、ここでの京都・部落解放同盟の活動を読むかぎりでは、「逆差別」という言葉が浮かんでこざるをえないのも事実。『……わが半生』でバランスを取るべし。