物象化論とソシオロジー
飯田橋の喫茶店で、夜8時半まで、内田隆三『社会学を学ぶ』を読む。
半分くらいまで読むが、おもしろい。
やっぱりParsonsのsystem理論には無理があったんだな、と思う。
Parsonsに言わせれば、やっぱりWeberは社会学者なんだな、と思う。
Marx思想が、社会理論にあたえた影響について考える。
昨日、話題にした物象化論についても、ふたたび考える。
事物には、具体的な使用価値(「使用対象性」)以外に、
一般的な交換価値(「価値対象性」)がある。
「価値対象性」は、事物を形成する労働が、
社会的性格をもっていることから発生する。
資本主義的生産様式のなかで流通している価値が、
事物に内在すると、われわれは思い込んでいる。
それが「社会的なもの」であるとしたらどうだろうか。
これは社会学の問題圏に属する。
Durkheimが自殺率の統計(という具体的事実)から、
「社会的なもの」を思考したのと本質的に同じだ。
内田によれば、廣松渉は、Durkheimに親近感を見出していたらしい。
廣松は、「物」が「より以上の物」として立ち現われると論じていた。
物象化論の話だが、廣松がそこで見ていたものは、ある意味で、
「社会的なもの」だったと言うこともできるのではないか。
なるほどな、と思う。
両者はともに、「人間学的な主体の平面を去ろう」(92)としていたのだ。
Parsonsの場合、(主意主義的)行為理論を核に、
Durkheimの見抜いた「規範的秩序」を位置づけようと試みた。
彼は、「人間学的な主体の平面」にあくまでこだわり、失敗したのだ。
(ベンヤミンのことも、想起されてくる。)
なお、フーコーのところで、言説分析の方法についても考えた。
知識社会学と異なる、言説分析固有の方法性とはなんなのだろうか。
言説をそれを語った主体に照準して分析すると、知識社会学。
言説を固有の分散状態のまま観察すると、言説分析。
しかし分析者は結局、そこになんらかの意味の構造を読み込むわけだ。
ならば、両者をわかつ区分線は、最終的にあいまいなままのようにも思える。
なんだか、よくわからないが。