ヒロウミックスへの回答

当初懸念していたとおり、ブログの交換日記化がますます進行しつつあるが、この際構わず、下記のヒロウミックスのコメントにまとめて回答する。

おまけに生徒が予想以上にレベルが低くて大変だ。「ノートは取った方が良いですか?」とか、「(事前に配った)プリントの順番通りに進まないので分かりにくい」とか、それこそ「そんなこと自分で考えろよ」と、ぶった切りたくなる意見が漏れ聞こえる。

大阪第二位の私立高校がそんな程度とは確かに予想外。生徒が子供なんだな。東大寺はもっと大人だったと思うが、あれはスレていただけかもしれないので、普通はそんなものだと考えるべきなのかも知れぬ。ちなみに小浜逸郎は、「大人」は「死すべき存在としての自分」を自覚しているために、子供とは異なる次のような特徴を持つにいたると述べている。

……「大人」と呼ばれる存在の生き方のなかには、子どもに比べて「死」が深く内在化されている。そしてそれは、現実的には、親が次世代を養育すること、仕事の規律や企画を自らに課すこと、理性的な知恵を表現すること、他者との関係の情緒的な重みを測定すること、などのように、人間にとって逃れられないさまざまな生の条件をそれとして引き受ける営みとなってあらわれるのである。(17)

すなわち、ヒロウミックスの生徒は、人生が有限であることに気付かず、それゆえ、目の前にある課題に主体的にコミットできないでいる「子ども」なのだ。だが、ある意味、仕方がないと考えるべきなのかもよ。高校の先生というのは、そういう「子ども」相手にご機嫌を伺う商売なのかもしれない。そう考えると、ウチの親父が異様に精神年齢が低い理由も納得がいく。ヤツはヤツなりに適応してるんだな。ちなみに、大人と子どもの「自由」認識の違いについても、小浜は鋭い指摘をしている。

子どもは、その生存を保護されることのうちに自由を見出すが、生きる能力の不全を感じることのうちに不自由を見いだす。いっぽう、大人は、他者の評価にたえず曝され、自立と責任を強制されることのうちに不自由を見いだすが、まさにそれらを果たしているという自己達成感(誇り)のうちに自由を見いだす。(22)

この点を踏まえると、小浜が、リベラルアーツ教育(エリート教育)は全体の一割で良い、と言っている理由も一層はっきりする。勉強に向かない生徒は、「学校うぜえ」「自由になりてえ」などと言って走り出したりするんだろうが、それは「大人であることの自由」が、彼らにとって理解しがたいままであるからだろう。彼らに出来るだけすみやかに「大人であることの自由」を了解させてやるためには、「他者の評価」に曝されつつ、「自立と責任」に基づいて「自己達成感」を得る経験を獲得させてやる必要があり、それは具体的な社会経験の場(=職業体験)において実現されるべきものである。抽象的な知識(=学問知)の重要性については、分かるヤツにしか分からないわけだから、少数精鋭で貴族教育を施せばすむ。その意味では、キミの生徒も、「学問知の獲得」と「大人であることの自由」とのギャップのなかで、主体性を宙づりにさせている「犠牲者」なのかもしれない。ここは『ドラゴン桜』ばりに、「学歴優勝劣敗図式」を刷り込んでみるか(冗談)。
あと、性の話。

ただ、性が当事者にとって素晴らしいものであるとも限らないだろう。ちょっとズレるかもしれないけど、たとえば包茎。「むけていること」が正常であり、男らしさの象徴として受容されてしまうことで、男の子は自分の身体に過剰な悩みを抱えてしまったりするわけで。

これは私の説明がまずかったので、誤解を与えたようだ。小浜が言っているのは、性とは人間にとってどのような意味を持つものなのか、という原理論のことだ。だから、「当事者にとって云々」の話も、原理論。その意味で言うなら、包茎で悩む男子も、「素晴らしい性」という観念を前提にするからこそ、悩みが生じるわけで、性が何の期待も抱き得ないものだとするならば、そもそも挫折感など生じないはずだ。
ついでだから、小浜のエロス論の一端を窺わせる文章を引いておこう。

私は、性に関しては、光のくまなく当たった場所での「科学的な知識」の注入などよりは、こういう秘密の、隠微で内的な納得の過程がむしろ必要だと考えている。というのは、ほの暗い性の領域が個的な実存のあり方と密接に結びついていることによってこそ、そこに文学的な奥深い世界が自然と生まれてくるのだし、人間の心の微妙な綾もまたはらまれるのだから。(102)

つまり、学校教育で性なんて教えられると思うのが間違いで、実際に教えると不自然にならざるをえないのは、性が本質的に公的な場で語る対象ではなく、私的な情緒性と深く関わる領域であることによっている。小浜は、人間は常に発情期だから、「性関係における心理的なモード」(「私」性)と「労働関係における心理的なモード」(「公」性)とを明確に区分しないと、社会秩序が安定しないと考えている(100)。現行の性教育は、この区分に基づいた心理的な使い分けの原則を揺るがしているというのである。もちろん、この小浜流「社会秩序」観には議論の余地があるだろうけれど、現在の性教育のベースに、「個人の幸せに結びつく明るい正しいセックス」(103)、セックスは「個人間の対等なコミュニケーションであるべき」(102)といった前提があるのは間違いなく、このような観念の人間論的平板さは、まったく如何ともしがたい。セックスとは、特定のコミュニケーションを達成するための手段といったものではなく、他者への伝達欲求以前の、情緒的な欲求である。この情緒性の次元に、「正しさ」「幸せ」「対等」といった公共的な価値観が入り込むというのは、倒錯以外にはあまり考えにくい。

文科相ゆとり世代に謝罪 茨城大付属中で」 これは何なんでしょうか。

今度の文科相の無能ぶりは、ほんとうに噴飯物だ。何だかんだ言って、遠山敦子河村建夫時代は安心して見ていられた。遠山の時の「学びのすすめ」と同じことをやっているといえなくもないのだが、中山の場合、「ゆとり教育」が中曾根政権下の臨教審路線の延長線上にあることをまったく理解していない。20年間のスパンで進められている議論なのに、表面的な問題点だけに単細胞的に反応して、社会正義を実現しているような気になっている。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。妻はイケイケで国民の支持を得たけども、夫の方はさすがに化けの皮が剥がれて欲しい。
なお、文部行政として本質的に問うべき問題は、臨教審・中教審レベル、政策内容レベル、現場レベル、学問レベルにおけるそれぞれの教育議論を、有機的かつ効率的に連関させるための仕組み作りなのではないのか。教育システムを有効に運営するためには、きわめて識見の高い人材が必要である。しかも、システムは相互に連関するため、全体構造を見通したシステム設計能力が不可欠だ。だが、民主主義的意志決定システムのなかでは、そうした全体構造に対する目配りが希薄になる。バラバラの具体案を恣意的につなげた所で、それは見込み違いの成果を生むだけなのだが…。この点への意識が、現在、どの程度あるかをまず問うべきだろう。さらに、これまでのように急激な制度改革は文部行政になじまないといった姿勢で、穏健な政策決定方式(つまり審議会方式)を取っていたのでは、これからの諸問題に対応しきれないという危惧もある。この辺を考えないといけないんだが、なんせボスの頭が悪いからなぁ。ふぅ。