大人化計画

昨年度と比較して一万倍は増加しただろうと思われる雑務の合間を縫って(昨年が少なすぎたというのもあるが)、せめて新書でもと、小浜逸郎『正しい大人化計画――若者が「難民」化する時代に』を読了。
小浜逸郎は好著『学校の現象学のために』など、教育論の分野ですでに少なくない成果を残しているが、今回の著作もまた、教育システム改革の提言を中心に、小浜の従来からの哲学論・人間論をふまえた、大変に刺激的かつ野心的な議論が展開されている。
新しい教育改革案のポイントは、次の三点。①「義務教育年限を八年に縮小し、小学校を四年、中学校を四年とする。授業は午前中のみ。科目は主要科目に限定し、技能科目は民営化する」(50)。②「高等学校は私立を中心とし、それぞれの専門性を強めた独自のカラーを強く打ち出す。就学期間は四年とする」(66)。③「高校卒業後の高等教育機関はすべて「大学」とする。就学年数は各大学の自由とし、総合大学を専門性を強めたカレッジ的な方向に分解させる」(77)。
最初に疑問が残ったのは、小学校において技能科目を民営化するという点。小浜は、親に対し、どのような教育内容を子供に受けさせるかという自己選択を迫るのだが、これには新たな問題を生じさせる危険が伴う。現在、教育への関心は、社会層によって二極化しており、社会低層に対してそのような選択のコストを担わせることは難しいと予想される。また小浜は、企業が中心に組織する職業教育案についても、親のコミットを要求するのだが、これにも同様の問題がある。
にもかかわらず、全体として、真剣な考察に値する論点が多数提起されていることに深く感銘を受けた。以下、気になった論点。
まずは教育システムの複線化。小浜のいうように、リベラル・アーツのような教養教育は、ごく少数の社会的エリート(1割程度)にとって必要であるにすぎず、机の前に座ることに向かない数多くの生徒にとって、そうした教科内容の強制は、「私はなぜここにいるのか」という無益感を増大させる結果しかもたらさない。これは、「機会の平等」にとどまらず「結果の平等」をも求めた「戦後教育」の特殊事情に由来する、時代遅れの産物である。(高度成長期の社会はそれが許される社会構造であったことにも注目せよ。)したがって、国民共通教育としての義務教育内容を明確化したうえで、多様な職業への意識を高めるようなシステムが再構築されることが重要となる。山田昌弘の回でも述べたように、職業構造と結びついた教育の配分機能を考えねばならないのである。
本題ではないが、性教育に関する議論も面白かった。ジェンダー・フリー教育をめぐる問題が保守系論壇誌・週刊誌の話題となって久しい。が、この問題については、肯定派も否定派も、本質的な意味での性教育の位置づけに成功していない。なぜなら、性とは当事者にとっては素晴らしいものであると同時に、非当事者にとってはいやらしいものでもあり、現行の性教育は、そうした性の本来的在り方に対する洞察をふまえず、気恥ずかしさを不自然に封印した語り口に終始しているからである。といって保守系の議論も、肯定派への批判以上の内実を示せているわけではない。小浜の立場は、基本的には性教育は不要、必要に応じて「倫理」における主題化がなされれば良い、というもの(具体的なことは、直接参照して頂戴)。
さらに、「倫理」と「道徳」の区別の議論も、なかなかデリケートで、「倫理」を中心とした「人生への構え」の準備教育が必要、との議論もかなり納得できるものだった。また小浜の改革案は、公民としての素養を重視する点が特徴的であるが、これもまったく正当だといえよう。従来の教育内容は、社会に参入していくことの意味を十分に掘り下げたものとはいえず、どちらかといえば抽象的な人間的能力をターゲットにするものだった。しかし、社会に参入することに伴う義務と権利について分かりやすく教えることは、ますます複雑化・高度化している社会において、基本的な知識内容であるといえるし、社会の一員としての「大人化」を自覚するための重要なきっかけともなしうる。このような視点は、アカデミックな教育学的論議のなかでも必要である。教育学はかなり麻痺している部分があるから(以下の引用を参照せよ)。

「学校教育」という基本の枠組みがいったんできあがって定着してしまうと、その枠組みの時間と空間の中身をどうしようかという議論が、教育全体を論じることと同じであるかのような錯覚に陥ってしまう。つまり、枠組み自体が教育全体にとっては相対的なものでしかないことが忘れられるのである。そして時には、「学び」の神聖性、純粋性が「教育=学校教育」の場で貫かれなくてはならないような感覚に支配される。(158−159)

(なお、こうした事情がもたらされる大きな理由は、教育の世界が「まだ大人社会と直接にはつながっていない年少者に眼差しとエネルギーが向けられる」世界であることによる。教育システムの外部へ参照することに動機づけられないのである。)
さて他には、「法的な通過儀礼の明確化し、大人社会への自覚化を促す」、「就労体験による労働および社会参加(およびそれに伴う自己尊重観念の獲得)を図る」といった提言内容が面白いのだが、キリがないのでこれで終わり。
最後に、全体としての問題点を指摘しておきたい。冒頭でも示唆したが、やはり小浜の教育案には、平凡人に対する要求水準が高すぎるのではないか、という懸念が拭えない。小浜は人が正しく大人になるためには、「第三の他者」(観念的に想定された他者)への感覚が必要となると主張し、これを、法的感覚の涵養、労働を通じた社会的承認といった提案のベースに据えている(と思われるが、違うかも)。さらに最後の方では、親の公教育への依存体質を批判しており、公的な制度へのコミットメントを通じた公共性の実現というテーマも浮上させている。これらはいずれも正論であることは間違いないのだが、しかし、近代(啓蒙)主義者がさんざん論じて、しかもことごとく失敗してきたパターンであることを想起せねばならない。もちろん、このような改革案によって初めて、現在の問題点も深く考えることが出来るのだし、そこでのアイデアは現時点でも十分に生かすことができるのだけれども(と一応、前向きに終了)。