パフォーマティブな言論の問題について

小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書)を読んでいると、評論と学問との微妙な違いについて述べられていて、色々と考えさせられる。もちろん学問が論理性と実証性によって構築されるべきものであることは言うまでもないが、文系の学問の場合だと、そういう厳密性は完全には成立しない。といって、大っぴらに直感を語るのはやはりマナー違反だし、なかなか難しい所がある。さらに一般向けの本というのは、往々にして専門的見地からは問題点があるわけだが、そういう知的挑発に富む書物がなければ、学術分野の発展がそもそも見込めないという悩ましさもある。
ところで、最近私がよく考えるのは、学問というのはやはりコンスタティヴな営為であるべきだ、ということである。つまり、あくまでも厳密にちまちました実証的知見を積み重ねていくことが正しい学問のあり方なのだと私は思う。一般に注目される研究というのは、大概がパフォーマティヴな研究であり、著者がどのような実存的関心を持っているのかという点が明白に読み取れるようになっている。読者はそうした著者の実存に魅了され、彼の書物を手にするわけである。しかし、正統的な学問にとって、著者の実存などはアウトオブ眼中だ。確実な新知見が述べられていることが、良い研究の証なのだ。
もちろんこのような断言が、味気さを伴う言い方であることは避けられない。こうした態度は、ある意味で、自らの存在を単なる知識マシーンとして限定してしまうことを意味するからである。これまで知られていなかったことを明らかにしていって、人生にとってそれが何なの、という大問題がここには存在する。一回切りの人生を、ちまちました実証的知見を獲得するために終えてしまうのだとしたら、それは余りに空しいという素朴な疑念に、我々はどのように対抗しうるのか。
という次第なので、現実には学問の世界においても、自己の実存的関心があからさまに示されているようなタイプの作品は多く生産されている。しかし私自身は、これはやっぱり正しい学問のあり方ではないのだ、と自分に言い聞かせたい気持ちがする*1。そもそも「自己の実存的関心」などといったところで、そのほとんどは類型的なものでしかなく、普遍的問題関心へと接続されるためには、それまでに積み重ねられてきた議論を参照することが欠かせない。そして、その参照の手続きにあたっては厳密な実証性が重要となり、やはり物を言うのは正統的学問なのである。もちろん、学問のきっかけが個人的関心であっても何の問題もないけれど、しかし最終的には、そうした関心が公共的に問われ得る資格を持つのかの検討が大切であろう。一般論として言うならば、自分の関心など取るに足らないものであることが多い。
なお、U先生は御自身の学問歴をふまえて、「極私的なものが普遍的なものに通じる」といった趣旨の発言をされていたと記憶するが、明らかなようにこれは、必ずしも真とは限らない命題である。極私的なものが誰の関心も呼ばず、またその解決案も誰にも利益をもたらさない、といったことは十分にありうることである。「10代真剣しゃべり場」などを見てみれば、それは余りにも明白な事実だと思う。
さて『評論家入門』のなかに、小林秀雄の評論文が、なぜ直感と飛躍に満ちているのかについての説明があり、勉強になったので紹介しておく。小林秀雄の文章は、理解出来たためしがなかったので、ちょっと安心できた。

小林がこのような評論文を書いたのには背景がある。小林は、ドイツ・ロマン派の批評か、フリードリッヒ・シュレーゲルの「批評も文学作品である」という思想の影響を受けていた。「作品」であるからには、「論文」と同じ書き方ではいけない。それ自体に「文学性」がなければいけない。「文学性」を獲得するためには、いわば散文詩のように批評文を書かなければならない。言うまでもなく詩というものは、何かを順序だてて論理的に説明するものではない。ただ、読者に対して何らかの気分を喚起することを目指している。つまり「論理」より「美」が重要なのだ。そこで小林は、次第に奔放で非論理的で、しかし読者に不思議な爽快感をもたらす書き方を会得していったというわけだ。(73)

道頓堀でモーツァルトト短調交響曲が聞こえてきたり、哀しみが疾走したり、たしかに何がしかの気分が喚起されるのである。だが、最終的によく分からず嫌な気分になるのが、小林秀雄の文章だった。もしかすると小林はプロレタリア文学を批判するなかで、ロマン主義に行きついたのかもしれない。しかし、ロマン主義などで夢見ている暇があったら、実証的に白黒がつくことを論じるべきだ、というのが今日の主張にほかならない。

*1:などと書きつつ、自分本来の性向はこういう実証性に埋没できるタイプでない、と自覚していたりする。私はコンスタティヴなことに興味を抱くのが苦手だ。