鉄道と近代

あまり何かを積極的に書きたい気分でもないので、shou氏にコメントを返しておくことにします。

昨晩、帰宅後、情熱大陸を見ていたら原武史が特集されてました。しかも、一見すると単なる「鉄ちゃん」みたいな扱いで。特集されていること自体に違和感がありましたが、その取り上げられ方も何か変でした。ところで、彼の書物ってどうなんですか。あんまり触れたことないんですが。seiwa君に斬ってもらいたいと思ってます。

私が持っている著作は、『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社メチエ)、『大正天皇』(朝日選書)、『鉄道ひとつばなし』(講談社現代新書)、『皇居前広場』(光文社新書)などですが、こう集まっている所を見ると、少しは気になる存在だということでしょうか?たしかに情熱大陸も見なきゃなあと思っていたのですが、見事に失念してしまい、残念に思っていたところでした。
さて、番組では「鉄ちゃん」扱いされていたということのようですが、鉄道というのは近代について考えるうえで極めて重要な対象であると考えられます。吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』には、このような記述があります。

電話に先立って、一九世紀から二〇世紀にかけて世界を急速に覆い、社会のあり方を変えていったメディアに鉄道がある。……鉄道は、遠距離間の人間や物資の大量かつ高速の移動を可能にしただけではない。鉄道が現われると、遠距離を移動し、旅行するという経験の質や意味が、それ以前とは全く異なるものになってしまった。(26−27)

具体的には、以下のようなことです。

鉄道の出現以前は、旅とは、徒歩や馬車でゆっくりと移りゆく風景のなかを進んでゆくものであった。旅の時間のほとんどは移動するために費やされた。旅とは目的地に行くことである以上に、目的地をめざしてその途中の空間を移動してゆくことだった。だが、鉄道が現われると、旅のあり方は一変する。それまで旅人を包み込んでいた風景は、車窓の外側に飛び去る。手も触れられない映画のようなパノラマになる。旅の行程すべてに向けられていた旅行者の意識は、鉄路の彼方の目的地へと集中し、人々は、旅の途中の空間から切り離されて、狭い客車やコンパートメントに押し込まれ、列車が目的地に着くのをひたすらに待つようになる。(27−28)

このことによって、まず空間概念が変わります。人々は、鉄道によって首都へと結びつけられた国土を、都市―田舎という階層的秩序を伴ったものとして想像するようになりました。
また原氏によると、日本において鉄道は、近代的な時間概念を浸透させるうえでも重要でした。均質な時間感覚は、学校における時間割などによってもたらされました。さらに1876年から1881年にかけての明治天皇行幸においては、天皇を迎えるタイムスケジュールを通じて、いっそうそうした時間感覚が培われていったようです。しかし天皇行幸は、東北地方に多く、九州には訪問はありませんでした。このことから、太陽暦的な時間意識が順調に定着しなかった九州地方では、鉄道の開通・拡大が遅れることになったのだ、と原氏は述べています。
いずれにせよ原氏の研究は、身体感覚のレベルにおける日本の近代、に関心が向けられているようです。たんなる「鉄ちゃん」であるにしても、「鉄道」は注目すべき学問的テーマであるはずなので、テレビ番組でもそれが理解できるように取り上げられるべきだったのではないでしょうか。
さて、鹿島茂井上章一『ぼくたちHを勉強しています』(朝日新聞社)という対談本でも、原氏はゲストで登場しているのですが、この本は面白い本です。

原:ぼくはもともと江戸時代の国学者の研究をしていたのですが、この本の趣旨に即してまず思い出したのは、国学者たちが、ペニスに異様に関心を持ったということでした。例えば、平田篤胤が書いた『仙境異聞』には、篤胤の門人で、夜になると闇の中でもペニスの先端が光ると言い出す守屋稲雄という人物が出てきます。……/原:とにかく日本がなんでも一番だと言いたがる人たちですから、ペニスも一番だと言う。本当にそう言っているんですよ。六人部是香という国学者は、西洋人はペニスが小さくて細いから、「夫婦の交会も、皇国人の如く、微き際には至るべからざる事」は明らかだ、などと言っています。(115−116)

情報グローバル化社会では、残念ながらこうはいきません。また国学者だけでなく、儒学者もおかしなことを言っていたらしい。「山崎闇斎の弟子の佐藤直方という儒学者は『聖人というのは、セックスも完璧なんだ』と真剣に言い出すんです。中国や朝鮮の儒学では考えられない。」(117)*1
またこの本のなかに出てくるエピソードですが、皇居前広場は戦後から1970年代ころまで有名な『愛の空間』でした。それに関連して、次の発言には注目です。

原:政治学者の丸山真男さんと石田雄さんが、五〇年代半ばに、箱根の芦ノ湖畔にある離宮跡の公園に行ったら、若い男女が白昼堂々セックスをしていた。それを見た丸山さんが「ここもとうとう人民広場になったね」と言ったという話があります。(123)

それから『大正天皇』がらみの話について。原氏によると、大正天皇天皇像をどのような方向性で打ち出すかが曖昧なうちに即位してしまった、ということになるのですが、皇太子時代の1912年、滋賀と三重を訪れた際、蕎麦屋の二階に上ったという記事が残っています。蕎麦屋の二階というのも、この当時の『愛の空間』でして、それは井上章一さんの本に詳しいのですが、とにかく大正天皇原敬に対して、「行啓に際し新聞紙に種々の事を登載して困る」と漏らしたそうです。(133)
ところでヨーロッパでは辻馬車のなかでやるというのがスタンダードだった時期があるそうです。日本だとどうだ、ということになりそうですが、次のやりとりが参考になるかもしれません。

鹿島:今の個室寝台なら大丈夫でしょうね。東京から札幌まで行く「北斗星」なんて、狙い目かもしれない。
井上:ぼくは京都から長崎に行く「あかつき」がいいな。夜、京都を発って、しっぽり楽しんで、明け方、長崎に着く。でも、「あかつき」に個室はあったかな……原さん?
原:ありますが、それよりも井上さん、大阪から京都を通って札幌まで行く「トワイライトエクスプレス」の最後部車両にある二人用個室が絶対にお薦めですよ。二人で車両の半分を占領し、流れ去る線路を眺めながら、最高の気分に浸れること間違いなしです。ただし、ぼくも乗ったことはありませんが。

やはり原氏はたんなる「鉄ちゃん」なのかもしれません*2

*1:「常人ノ交合ヨリ甚深ヒ筈也」

*2:原氏は痴漢の発生5条件についてこう述べていて興味深く思いました。「ひとつは、女性の洋装が一般的になること。ふたつ目は、ラッシュ時の混雑により、人と人との接触が避けられなくなること。三つ目は、通勤時間帯に女性が多く電車に乗るようになること。そして四つ目の条件は、男性が女性の身体に触れても、女性が声を出さないと思われていること。最後は、井上さんの『パンツが見える。』にかかれていたことですけど、スカートの中に「幻想」が成立すること。」(159)そうした条件が揃ったのが、日本では1950年代後半以降で、最初の「痴漢小説」は、1967年に書き始められた泉大八『欲望のラッシュ』です。