19世紀末イギリスの教育事情

井野瀬久美惠『子どもたちの大英帝国 世紀末、フーリガン登場』(1992、中公新書)を読みました。暴徒化した若者のことが「フーリガン」というアイルランド語で呼ばれるようになったのは19世紀末のことなのですが、その背景にあるイギリスの国際事情、国内事情について詳細に記述されています。とりわけ一章分を割いて、当時のイギリスの学校教育について書かれているのですが、義務教育制度の導入において、イギリス特有の階級間対立がどのように作用したのかという議論が、私にとって興味深い部分でした。以下では、「フーリガン」と呼ばれる困った存在が、イギリスのどのような社会的背景のなかで誕生したのか、彼らを問題視する視線の内部にはどのような問題関心が存在していたのか、また「フーリガン」が学校文化とどのような対抗関係を築いていたのか、といった点について確認しておくことにします。
さて、1873年のドイツから始まった世界恐慌は、19世紀末のイギリス社会を慢性的な経済不況に陥らせることになったのですが、このことは労働者にとっては、必ずしも悪いことばかりではありませんでした。なぜなら、不況にともなう物価の下落は、労働者の実質賃金を上昇させ、また1870年代以降の輸送手段や食品保存技術の発展は、労働者の家庭の食卓をきわめて豊かなものにしたからです。むしろ、この不況による影響をまともに受けたのは、中産階級やジェントルマンの方でした。(56−59)
そうしたなか、少年たちも非常な恩恵を被ることになりました。都市型の消費社会が成熟して、非熟練の低賃金労働である「少年労働」の需要が増大し、彼らはこの仕事によって現金を容易にかせぐことが出来たからです。この時期の労働は、主にサービス部門において発生しましたが、ここで手にした現金によって少年たちはミュージック・ホールなどで毎日を楽しむ生活を実現したのです。もちろん、これら非熟練労働には昇給の望みは殆ど無く、彼らの人生を貧困のサイクルへと追いやる危険を伴ってはいました。しかし、彼らはさしあたっての日々の愉しみをおおいに満喫することを選び、独特の服装や髪型をした不良集団を形成して毎日を過ごしました。「フーリガン」と呼ばれる不良集団が出現するようになった背景はこのようなものでした。
こうしたフーリガンの少年たちが、中産階級らによって問題視されるようになったことには、いくつかの要因がありました。そのひとつに、ボーア戦争少子化問題が深刻化するなかで、遺伝優生学ダーウィニズム的進化論などと合わせて、大衆的な教育が重要だと考えられるようになったことがあります。たとえばヴィクトリア朝末期からエドワード朝にかけてイギリス社会では、子どもを生み育てる女性の無知が問題とされ、母親の再教育の必要が叫ばれていました。1860年代には、地方行政当局によって訪問健康相談員が家庭に派遣されたり、20世紀には、優生思想を基盤におく民間団体が創設されるなど、さまざまな取り組みが進められています(96−97)。さらに19世紀後半にはパブリックスクールが量的に拡大されるようになり、ジェントルマンだけでなく中産階級の子弟にも門戸が広く開かれるようになりました。そこでは古典による教養教育よりも、クリケットフットボール、ボートなどの集団競技が人格陶冶の手段として重視され、こうした「アスレティシズム」の重視が「拡大する帝国の植民地に、知識よりも身体や忠誠心、服従や強調の精神を求める国家の要請」に基づき進められました(85)。こうした大きな流れのなかで、労働者階級の子弟も教育機構の内部に組み込んでいくべきだという認識が社会的に共有されるようになっていきます。「フーリガン」という対抗文化が誕生しえたのは、このような社会条件を背景にしてのことでした。
では、具体的に義務教育がどのように進められたかについて確認しておきましょう。その起点となったのは、1870年の初等教育法(フォスター法)でした。フォスター法は、「全国を学区に分け、そこに公選制の学校委員会を置いて地方税で運営される委員会立の学校を造り、五歳から一三歳までの子どもたちの就学を義務づけた」法律です(111)。しかし、フォスター法以降の義務教育政策は、制度的には明らかな不備を抱えていました。授業料免除の規定がないため、子どもを貴重な労働力とする労働者階級に歓迎されず、また私立学校の5分の4が国教会系であることによって、宗派的偏りを持っていたからです。なかでも、1862年から1897年まで続いた「出来高払い制度」は、きわめて大きな欠陥を持つ制度でした。この制度は、学校への出席率と「読み書きそろばん」の試験成績によって学校への国庫補助金額を決定するというものでしたが、結果として、鞭を用いた強制教育を生み出すことになったからです。こうした教育内容は、労働者階級の子どもにとってほとんど受け入れがたいものだったと考えられます。各地では、学校ストライキの問題も頻発したといいます。
つまり、フーリガンとは、このような形で生じてきた現象であったわけです。彼らは19世紀末イギリスの経済的条件に支えられ、都市を闊歩する不良集団を形成しました。また、労働者階級の教育的「囲い込み」に対抗し、ファッションなどの点で対抗文化を形成しました。イギリスの国際事情、都市化の進展、教育制度の整備が、フーリガンを誕生させたのです。
なお「出来高払い制度」の欠陥は、ボーア戦争期において大英帝国衰退の危機が自覚され、遺伝優生学思想に基づく「国民の退化」が問題視されていくなかで、ようやく1902年教育法および1904年の改正教育法によって問題とされます。そこでは根本的なカリキュラムの見直しが進められ、帝国民族としての自覚と誇りをもたせ、仲間意識や自己犠牲の大切さを説く内容の改革案が提起されました。たとえば、体育、歴史、女子に対する家庭科などが必修科目化され、また「帝国記念日」の制定による愛国心の涵養が意図されることになりました。とはいえ、著者によれば、このことは少年たちに愛国的気分を高揚させたものの、フーリガン問題の根本的解決にはつながらなかったといいます。