「大学 起源」

カロリング朝において論理学をはじめとする形式的学科が重視され、それがスコラ哲学につながっていったことは確認した。普遍的概念(唯名論VS実念論)の問題は、その後も引き続いて討議され、ラバヌス・マウルスらによる論争が展開された。
とはいえ、「シャルルマーニュ大帝によって創始された教育制度は何等かの刺戟をうけるのでなければ、また外部からこういった変化を行うのに必要な生命力の増加、原動力の充実をうけるのでなければ、自動的に発展し、自然に変化することはできなかった」という事実は、十分に留意しなければならない(142)。シャルルマーニュ大帝没後、「ヨーロッパの全精神力の力強い集中は終焉を告げてしまった」(142)。次の変化は、スカンジナヴィア人やサラセン人やノルマン人らの横暴により、カロリング帝国が凋落した10世紀が過ぎて、ようやく見られるようになるのである。
他方、11世紀は十字軍に見られるように、ヨーロッパ社会の活動力が増進した時代であった。「文明に関する創造的時代は、正しく民衆の中に何等生活の必然的要求によって支配されることなく、ただ、はけ口と発散することだけを求める、蓄積された生命力が存する時代」である(145)。11世紀とはまさしく、そうした安定の時代だったのである。さらにこの時代には、社会移動の流動性が高まることとなった。十字軍、巡礼者など、「あらゆる階層、あらゆる職業の人々」がヨーロッパを移動することで、学校や教育の発展が大きく進むことになったのである。
この11世紀には、活動力の増進、国境を越えた知的交流の活発化によって、「大規模な学校集団」が誕生するにいたった。さらに12世紀初頭になると、カペー王朝がパリに首都を定め、「パリー学校」が大きな名声を獲得した。これは教会組織として発足したが、まさにここでは「教育上の革新」が見られるようになった。というのも、「この中心的で特権的な中心点をめぐる覚醒した生活」から、「中世文明が真につくりあげられる母体となり、しかもその後形は変えながらも、今日まで存続する運命をもったあの大学という組織」が誕生したからである(151)。
この「パリー学校」の威信は、アベラールに対する熱狂のなかにも見出すことができた。アベラールらは類概念などの普遍的概念をめぐる論争を行った。この問題は、キリスト教の三位一体の論議とも関わり、人々の間に熱狂的興奮を呼び起こした。学校の大規模な整備とも相まって、こうした欲求――「宗教の真理を問題とし、それが果してその主張するように正当な根拠を有するのか否かを訊ね、宗教の真理を合理的な、わかり易いものたらしめる形を求めようとする要求」――は、思想の領域に「理性、批判、反省的精神」という革新的な要素を持ち込んだ。それらは宗教的真理を前提としつつも、それを内部から瓦解させるような要素をはらんでおり、その点できわめて革新的な出来事だったのである(157-158)。