豊田四郎『如何なる星の下に』(1962年)

seiwa2005-06-16

(117分・35mm・カラー)おでん屋のぐうたら亭主(加東)のもとに生まれた三姉妹の幸薄い行く末を、ブラックな喜劇性も加味して描く。八住は原作の背景となった昭和初期の浅草を戦後の築地・佃に置き換え、都市開発で埋め立てられた築地川の最後の姿などは東京の貴重な映像資料にもなっている。
’62(東京映画)(原)郄見順(脚)八住利雄(撮)岡崎宏三(美)伊藤熹朔(音)平岡精二(出)山本富士子池部良森繁久弥加東大介池内淳子三益愛子淡路恵子大空真弓乙羽信子植木等西村晃山茶花究、北あけみ

やるべきことがあろうが、そんなの知ったこっちゃない。いざゆかん、フィルムセンター。出演者は、山本富士子(美佐子)、森繁久弥(但馬)、池部良(倉橋)、乙羽信子(三登次)、加東大介(惣太郎)、三益愛子(おまき)、池内淳子(玲子)、植木等(五郎)ら。
想像していたよりも喜劇性がつよかったけれど、秀作。映画全体のまとまりという点ではさらに上のレベルがあるとは思うが、細部の人物描写が行き届いており、思わず息を呑んでしまうような場面がいくつもあった。そんな思いを味わわせてくれる映画は、少なくともギンレイではあまり観られない。
特筆すべきは、山本富士子の美貌のほかに、なんといっても森繁久弥の怪演である。森繁は、山本を捨て四年姿を消していた前夫という役どころ。服屋を営むと称しつつ、池部良に心ひかれている山本に幾度も復縁をせまる。じつは彼は、女々しい関西弁を操りつつ、山本を口説き落とそうとあの手この手を試みる詐欺師だ。幾度も襲いかかってはその度も拒絶されるのだが、拒否された途端に謝るその素直さに、何とも憎めない雰囲気がある。結局、情にほだされてしまった山本は、かれに金を渡すだけでなく、体までを委ねてしまう。その後森繁はすぐさま自分が詐欺師であると告白し、山本は悲嘆に暮れるのだが、とはいえ、落とされてしまうまでの口説き方が妖しいながらも真に迫っており、これでは山本も仕方が無かろう、と観客を納得させずにはおかない。ひとえに森繁の演技力の賜物。このタイプの演技はほとんど誰にも真似が出来ない代物だと思う。*1
映画は、おでん屋の三姉妹の長女である山本富士子が、傷痍軍人で卒中になった父、ふだんは大人しいが時に酒乱になる母、男にだまされ命を絶った次女、ダンサーに憧れ危ない賭けに乗り出してしまう三女、別れたはずの前夫、などの束縛を抱えつつ、憧れの池部への恋心を胸にしまわねばならない境遇におかれる、というストーリー。弱者の足の引っ張り合いの只中で、なんとか明日の希望を見出そうと懸命に試みるが、かといって山本自身もそう強くはないので、しばしば重圧にうちふさがれてしまう。そういう少し辛い映画である。
冒頭に映し出される大川は、薄茶色ににごり、汚れてしまっている。その水の汚れは、山本が抱え込んだ人間関係の束縛を象徴するのだろう。とはいえ、この映画は基本的にコメディタッチで、悪人にもどこか愛嬌が見られるのがミソだ。周囲の人間をむげに断罪出来ないからこそ、山本の心情は、いっそう遣り場のないものとなってしまうのである。佃島の淀んだ水は、そうした運命の行き場のなさを、しみじみと観客に訴えかける。*2

*1:「わし妬けるわ、わし妬けるわ」って、決めゼリフが良かった。

*2:最後の場面で山本は、「誰が可哀そうって、人間は皆んな可哀そうよ、人間皆んなが可哀そうなのよ」とすすり泣く。池部は、そこを何も言わずに立ち去ってしまう。