梅雨に入ったのかしら?―江東区教育事情―

今日、江東区まで家庭教師に行ってきて、そこのお母さんから聞いた話であるが、地元の公立小学校・中学校はどうしようもないことになっているらしい。江東区は、都心への利便性が注目され、高層マンションが多数建設されるなど、サラリーマン世帯の流入人口が増大している地域である。しかし、従来から住んでいる人々には、中小企業に勤めている割合が多く、そうした家庭では、学校の勉強などはあまり重視されない傾向があるのだという。したがって、たとえ学級崩壊などの教育問題があったとしても、親は「ウチの子どもがそんなことをするはずがない」等のエゴイスティックな発言をするばかりで、まともな学校教育は成り立たない状況になっている。また、マンション住まいのサラリーマン家庭だと、子どもは越境入学*1や私立中学に進学してしまうので、江東区の公立中学校が使用する教科書は、一番簡単で、一番薄い教科書なのだという。
さらに詳しくリサーチしてみたところ、そういう家庭の親たちは、どうやら「教育の持っている意義」などというものが、OUT・OF・眼中であるらしい。まず、親自身が生活に疲れている。肉体労働者も多いし、母親も収入のためにパートの仕事に忙しい。とはいえ、慎ましい生活をしているのかといえばそうでもないのが、面白いところだ。子どもの草野球大会などがあると、金のネックレスをした父ちゃんや、お弁当こさえた母ちゃんたちは、その後「打ち上げ」と称して12時ころまで騒ぐのが恒例となっている。つまり、その日が楽しければそれでいい、という享楽主義が行き渡っているのであり、彼らの教育意識には、そういう長期的展望のなさも影響しているように予想される。
さて、そういう話を聞いて思いだすのは、教育学者たちの「学校選択制論議である。私は、学校選択制に賛成する立場だが、多くの教育学者は「学校選択制」に反対している。というのも、「学校選択制」は、学校序列に基づいた親のエゴを亢進させ、また地域共同体の教育力を掘り崩す制度だからである。しかし、山の手のサラリーマン家庭の集まった学校でもなければ、「地域共同体の教育力」など逆に有害であるかもしれないことは、十分に留意すべきだろう。「子どもの教育について親は真剣に考えるものだ」という所与の前提は、十分に疑わしい事実なのである。もちろん、そういう状況ゆえにこそ「学校選択制」は優者と劣者を分離する「新自由主義イデオロギー」でしかないのだ、という理屈もありうるが、それに対しては、「それじゃあ、自分の子どもを、バカな親たちで駄目にされてしまっている学校に行かせなければならないの?」という批判が対置されなくてはならない。私は、後者の批判は至極まっとうな意見であって、当然認められるべきものだと思う。

*1:90年代後半以降、「学校選択制」を視野にいれた「通学区域の弾力化」が各地で進められている。