池波正太郎の東京

サン=サーンス交響曲第3番オルガンつき』はなかなか良い曲だなぁ。オルガンもかっこいいなぁ。ところで昨晩は、これとは別のすさまじい曲を聴いて寝たら、あまりに異常な演奏だったので、4時間も寝ないうちに目が覚めてしまった。
今日は忙しい日。小田中直樹『ライブ・経済学の歴史』を購入し、最初と最後の章を読んだのだが、かなり面白そうだった。きちんと中身を読んだら、報告したい。
今朝の電車の中では、昨日に引き続き、川本三郎『東京おもひで草』を読んだ。池波正太郎のくだりがとりわけ興味深かった。

よく知られているように、池波正太郎は、小学校を出るとすぐに茅場町の商品取引所に働きに出た。といってそれは、「路傍の石」のような苦労とは意識されていない。むしろそれは「一日も早く、大人になりたい」と思っている町っ子にとっては、当然の進むべき道であり、望むところである。池波少年を育ててくれた祖父はかざり職人である。近所には職人がたくさんいた。住宅地と違って、“親が働いている姿が見える”町だった。町っ子の特質はここにもある。町っ子は早くから大人が働いている姿を日常的に見ている。だから働くことが苦にならない。(122)

大人になると、こんな良いことがある。

早く大人になる。それは別に苦労ではなく、むしろ楽しみでもある。大人と同じように働き、稼ぎ、自分の金で好きな芝居や映画を見て、帰りに寿司や天ぷらを食べる。そうした大人の生活が町っ子にとっては当たり前の日常になっている。(122)

また「一般に明治以降の東京の子どもは、父親文化と母親文化に引き裂かれ」ていた(123)。父親文化は、立身出世のための「実学尊重」、母親文化は、「明治的な上昇志向の倫理とは無縁の役に立たない軟派文化」だったという。ところが池波少年の場合、父親が早くからおらず、もろに母親文化の影響を受けることになった。言うまでもなくそれは、町っ子文化にどっぷり浸かった、したがって、大人の生活文化であった。
こういう山の手と町っ子の文化の違いは、見落とされるべきでないと思う。たとえば大正期の児童文学では、純粋無垢で優等生的な子どものイメージが描かれている。「赤い鳥」などもそうだが、子どものイメージという場合、ついこういう山の手のイメージを前提にしてしまいがちだ。しかし、河原和枝さんの研究にもあったように、それは日露戦争後のロマン主義的内面の発見のなかから生じてきた新しい現象なのである。

児童文学の古典に吉野源三郎君たちはどう生きるか」(昭和十二年)がある。戦前の東京山の手の中学生たちの友情を描いた作品だが、これを池波正太郎の少年時代と対照させると、山の手の子と町っ子の違いははっきりする。この児童文学の主人公の少年たちは、池波少年とほぼ同時代に生きているが、芝居見物も映画見物もしない。学校と勉強が中心のみごとなくらいに優等生である。東京中の芝居を見てまわったという町っ子の池波少年とは別の世界にいる。(125)

付け足しで、文化の継承性について。

一般に、相撲・歌舞伎・落語は子どものころに親に連れていってもらって好きになるものだ。だからこの三つとも「先代の……」が重要になる。大人になって文化教養として見てもメッキがすぐはがれる。「先代の……」を知らないと話にならない。(125)

そういや、かつて鈴本演芸場でえらく満喫している様子の子どもに出会ったことがある。でも、こういう「『先代の……』を知らないと話にならない」という感覚は、いまだと噺家のなかにさえ無くなっているのかもしれないと思う。立川談志師匠はテレビで「先代の……」といった話をよくしているが、そうしたときの師匠の口ぶりからは、伝統感覚がもはや成立していないことへの嘆きの感情が伝わってくるように感じる。文化の蓄積への意識があってこその「イリュージョン」であり、またそうしたものがなければ、自分なりの基準(=批評の原理)を用意することは出来ない。