佃島に行きたい!

地下鉄の駅から地上に出て、線路下のアーケードを通ると、黄色い外装のラブホテルがあり、その隣にはチェーン展開している古本屋が並んでいる。私はそこの百円均一コーナーを、ほとんど習性のように毎日覗き込む。今日は、川本三郎『東京おもひで草』(ちくま文庫)を見つけた。
川本三郎には、古本屋でよく見かける『雑踏の社会学』(ちくま文庫)という著作があるのだが、私はこの題名のセンスが気に入らず、これまでずっと彼のエッセイを敬遠してきた。ところが、読んでみると、文章のリズムがとても心地よい。内容も、東京散歩を中心としたもので、含蓄深い。今後は、積極的に手にとってみたい作家となりそうな気がする。
読んでいて、植草甚一について書いた次の一節に、はっとさせられた。

植草甚一には地誌にも、町の変遷にも興味がない。町の裏通りや路地にも関心がない。ただ自分の好きなものが買えればそれでいい。その意味で、植草甚一の町歩きは、子どもっぽいものではなかったかと思う。
甘いものが好きで、酒と女とギャンブルが嫌い――だから子どもっぽいというのではない。自分の好きな世界が早いうちに決まってしまって、そのあとずっとそこから動かなかったという限定性が子どもっぽい。つまり、植草甚一は早い時期に、自分の好きな世界にこもってしまって、大人になってもずっとそこにとじこもったままの人だった。子どもが自分の好きな玩具に囲まれた子ども部屋で遊んでいる。玩具にあきると、新しい玩具を買いに町に出かける。そしてかえるとまた子ども部屋にとじこもる。(152)

まずは、すばらしい描写だと思う。それから、自分のことが書いてあるとも思う。
また、無性に映画が観たくなった。

昭和三十七年に作られた豊田四郎監督の「如何なる星の下に」は東京の佃島から始まる。山本富士子が友人の乙羽信子佃島住吉神社を参拝し、そのあと佃の渡し船に乗って、対岸の湊町に戻る。……この映画では、山本富士子は築地川沿いの聖路加病院近くでおでん屋を開いているという設定になっていて、東京オリンピックを機に埋め立てられ高速道路になった築地川の“最後の姿"が実によくとらえられている。山本富士子が川べりに立って悲しそうに「この川も汚くなっちゃって。二十年前は白魚もとれたのに」という場面もある。また森繁久弥山本富士子の別れた夫)が、木下杢太郎の有名な詩「築地の渡し」――房洲通ひか、伊豆ゆきか、笛が聞こえる、あの笛が。渡しわたれば佃島。メトロポールの燈が見える――を口ずさむ場面もある。(172−173)

読んでいるだけで、何ともいえない情緒が漂ってくる。伊豆に行った時、木下杢太郎の碑を見かけたことも、思い出されてくる。ちょうどフィルムセンターでは、豊田四郎監督特集をやっているから、ぜったい観に行こう。上映は、今週木曜夜と7月16日(土)の昼からだそうだ。